主体性こそ真理である
実存哲学で有名なキルケゴールは「主体性こそ真理である」と述べている。
その哲学的な意味はともかくも、人間は、「自分の人生」を生きなければならないという絶対的な宿命がある。
自分は誰かの代わりにはなれないし、誰かが自分の代わりにもなれない。
しかし、人間は、他人や様々な現象を客観化して眺めることができるという不思議な存在でもある。
さらに、自分に起きている現象ですら、客観視できるという能力をもっている。
つまり、自分に起きていることや、自分を取り巻く環境について、主体的にかかわらないという選択ができるのである。
自分に関わる様々なことを主体的に取り組むことを放棄しても、生存が可能なのだ。
しかし、そのような人は、自分の人生を生きていないという意味で、真理の中を生きてはいない。
虚構の現実のなかで、ただ生存しているのである。
生きることが主体的な選択であり、主体的な行動であるならば、その世界を生きるためには、自分で選択し、自分で行動するという主体性がなければならない。
つまり自分にかかわる事柄は、自分でやることが求められているのだ。
それが真理の中を生きるということである。
自分に関わることを、基本的には自分でやること。
それは難しいことでもある。全てはできないが、できる限りを尽くして実践しなければならない。
もちろん、その「できる限り」の世界を生きている人は、この世界にはそれほど多くはない。
日常世界を、そのような極限状態で生きていくことが必要だとは言わないが、しかし、他人任せにしていること、自分から進んで行動していないこと、判断を他人にゆだねていること、そのようなことが自分の生活の中に、必ずあるはずだ。
それを発見したら、たった一つでもいい。それを自分の下に引き寄せ、自らそれを行ってみよう。
その時に、「主体性」というものの価値が、あなたにもわかるに違いない。
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