新・知的生活の方法
かつて、私の尊敬する渡部昇一氏は「知的生活の方法」という本を書かれた。
そこには、学問的な生活の方法について、環境も含めた詳細な方法論が書かれていて、私は学生時代に大きな影響を受けた。
氏の書かれた「知的生活」とはまた別の意味での「知的生活」が求められる時代になった。
これまで自分が教科書で学んだことを根本的に疑い、読書を続けながら次から次に明らかになる新しい情報によって、自分の思考や認識を絶えず改めなければならない。
そして、それだけではなく、いわゆる「情報」についても、自分自身で調べて確認しなければならない。
学問の府と呼ばれる大学の先生からの情報だとて、その真偽はあてにならない。
政府や政治家の流す情報だとて、それは事実や真実を担保しえない。
各政界の専門家やプロを名乗っている人々からの情報も、全てが正しいものでもない。
もちろんマスコミの流す情報はむしろ偏向やプロパガンダは常套手段である。
これまで権威あるものと思われていたものの崩壊。信用できると思われていたものの裏切り。金や欲によって世界は歪み、自分でその歪みに気づかなければ、間違った方向に人生が導かれてしまう。
その意味では、非常に厳しい時代になった。
間違った知識や情報をもとに世界や社会を認識することで、そもそもの自分の根本的な思考に過ちが生じてしまう。
認識や思考の過ちは行動の過ちにつながり、それは多くの人々にとって幸不幸を分ける分水嶺にもなる。
真偽が入り混じる世間の情報や知識は、多くの人々の人生において間違った判断や行動を無数に生み出しているのだ。
数多くの意見に耳を傾け、多くの本を読み、様々な情報に先入観なく接していくことが求められる。
世界に流布する知識や情報は数多いものの、本物を見分けるための目が求められるのである。
それには、自分で探すしかない。求めるしかない。考えるしかない。
自分自身だけをよりどころとしながら、多くの情報や知識を選別し、自分なりの真実の塔を積み上げなければならないのである。
そしてその塔が、根本的に崩れ去ることさえも覚悟しなければならないのである。
そのためには、自分の心を絶えず開いておかなければならない。
新たなものに対して、そしてこれまでの自分の知識や情報を否定するものに対して。
レッテル貼りは勿論だが、決めつけや思考停止、それ以上を求めない怠惰は自分の幸不幸を左右するのである。
新・知的生活は自分の中にこれまでの世界観を崩壊させるような知識や情報に対してさえも思考を開いておくことを要求する。
「開かれた思考」によって躊躇なく新たな知識や情報を受け入れる謙虚さや素直さが求められる。
学びをやめないこと。思考を停止しないこと。新たなものに心を開いておくこと。
信じつつ疑い、疑いつつ信じること。
こんな心掛けが、知的であるための最低限の条件となる時代なのである。
いや、知的であろうとしなくても、幸せに生活していくためには必要な条件となってきているのだ。
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