ニヒリズムを超えて
私が大学に入学した当時。
大学は遊び場だった。みんな大学受験からの開放感から浮かれていた。
しかし、景気の良かったあの時代の学生たちですら、ある種のむなしさや虚無感を感じていたのは事実だ。
しかし、人生の意味や、人間が生まれてくることの意味、自分の存在価値についての疑問が脳裏をよぎっても、そのようなものを考えることは無意味だというニヒリズムがあった。
そんなことを真面目に考えていること自体が、ヤバい奴のような時代だった。
むしろ「ニヒル」であることがかっこいいというような流行感もあって、多くの学生はそのような空気の中で生活していたのだ。
その基本的な空気感は、実は今でもそれほど変わっていないかもしれない。
意味がない、価値がない、仕方ない、無理である。
このような無力感は、学生たちの目を目先の楽しみや生活上の些末事だけに向けさせ、そこで人生の充足を得ようとする姿勢につながっている。
意味や価値の不在によって、あるいはそれを考えない、考えても意味がない、価値がない、という堂々巡りの中で、日々の生活に明け暮れている人間は決して少なくなはい。
自分や他人や世界に対して、一定の意味や価値を感じられるのであれば、人間はその意味や価値を求め、実現し、具体化する行動に生きがいややりがいを感じることができる。
そこに人間の生命の躍動や思考の充実がある。心に光が宿るのだ。
「虚無主義」とも言われるこのニヒリズムは、人間性を失わせ、社会や世界を崩壊させる力となる。意味や価値のないものは、この世界に存在しようがなくなろうが、壊れようが、どうなろうが、どうでもいいものになる。
無常の世界を生きる人間は、時折、このニヒリズムに襲われる。
何をやっても何も変わらない、自分の存在価値などない、こんなことしても意味はない、どうせ同じだ。
変わりゆく世界の中で、何一つ確かなものなどないのだとしたら、それを求めること自体が無意味で無価値だと感じられる。
しかし、変わりゆく世界の中でだからこそ、変わらないものを求めることが大切だ。
理念や理想が過去から未来へと語り継がれてきたように、これをつないでいくことが、多くの人々の人生に希望を与える。
人間の生命がもっとも輝き、幸福感に満ちる瞬間は、意味と価値の実現と実感にあるからだ。
その光を絶やさないためにも、ニヒリズムを超えて、自分なりのものでいい、「意味」や「価値」を多くの人に届けよう。
その継続的な連鎖のみが、人間を幸せにしていくための欠かせない絆である。
これを同時代を生きる人々に、そして後の世に生まれる人々に、伝え、遺していく営みが、また、あなたの人生に「意味」と「価値」を生むのである。
まずはあなたの人生にも、他人の人生にも、この世界の存在にも、意味や価値があることを信じよう。
幸せな人生への道のりは、そこから始まるからだ。

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