目的喪失とは緩慢な絶望状態である
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その4
例えば難関大学の入試を突破した学生であっても、その段階で目標を失ってしまえば、その進歩は止まる。例えば偏差値が70くらいの大学に入学しても、偏差値48くらいの大学に入学しても、4年間の過ごし方で、その学生の中身は大逆転する。これは社会のあらゆるところで実際に起きていることだ。
私の大学時代の憲法学の先生が「入学したときが、学生の学力は一番高い」などということを学生に向かって述べていたことを思い出す。
人間は一時期、能力が高いように見えても、それを使う機会を失えば、その能力は腐ってしまい、役に立たない。使わない能力は、容赦なく衰える。
だから、人間にとって、目標が失われることほど不幸なことはない。
自分の感情や欲望に振り回され、挙句の果ては周囲をも不幸に巻き込む人の多くが、目的や目標を喪失している。それは学生ばかりではない。社会人もまたそうなのだ。目標があるということは希望があるということ。希望がない状態は絶望している状態である。
緩慢な絶望状態が、目標のない人に襲い掛かる。そこからはいくらでも堕落し、人生の方向を間違えるきっかけが入り込んでいく。
これは進むべき方途を見失った難破船のように、行き着く果てがない。
進むべき方途はもちろん、高貴な目標である必要はない。また自分にとって最終的な目標である必要もないのである。
自分が将来何をしたらいいのかわからない。自分が目指しているものが本当に自分に合っているのか分からない。そんなことを言う学生は非常に多い。
それならば、仮の目標でもいい。臨時の目標でもいい。とりあえず目先の目標でもいい。
とにかく、自分の生活を方向づける何かを定めることだ。
そして、それに打ち込むことなのだ。
そうしているうちに次の扉が開かれることがあるし、新たな出会いもあるだろう。
そのようにして人間の人生は展開していくものであり、最初から自分にぴたりと合った目標や理想や職業や人間関係は得られるものではない。一つ一つのブロックを積んでいくように、一日一日を努力と工夫と発見と創造の日にしていくこと。
そのためにはだから、一日だけの目標であっても、今日午前中だけの目標であってもいい。
何かを設定して、すぐに始めよう。
寝ながらスマホをみて過ごすよりも、どれだけ建設的だろうか。
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