何のために学ぶのか(知と愛について)
学生時代に、西田幾多郎という人の「善の研究」という本を読んだ。
その中の最終章に「知と愛」という論考がある。この部分を読んだときに、私の長年の心のつっかえが取れたような衝撃をうけたことを、今でもよく憶えている。
簡単に言うと、知と愛は本質的に同じ精神作用であると書いてある。
私は、何のために学ぶのか、何のために勉強するのか、ずっと考えてきたのだが、結局自分を愛し、他人を愛し、社会や世界を愛するため。
そして自分や他人や世界を「理解」することが結局愛の本質であり、知性はそこで輝くのだということだ。「理解する」という言葉によって、「知」と「愛」が融合したのである。
自分を理解し、他人を理解し、世界を理解すれば、おのずから自分のやるべきことがわかるのだと思った。
それは果てしない旅の始まりを意味するが、人間はこのために生まれてきて、生きているのではないかと思うのである。
身近で言えば、何もしてあげられなくても、相手を理解すること、理解する努力をすることが、相手を愛しているということではないかと思う。それは些細なことだが、それだけであなたは知的営みと、愛するという営みにすでに参加していると言えるのである。
そして、学ぶこと(理解すること)は、自分が幸せになり、他人を幸せにするという意味でも、最も重要な要素なのである。
知は愛のために、愛は知(理解)のために。
そして、この二つは、人間にとって、最も尊き精神作用であることを。
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