新入職員研修。その理不尽さ?
学生時代をいかに生きるか ―専門学校教師編―その2
しばらくすると、「新入職員研修があるから、かならず参加するように」と指示を受けた。その新入職員研修とは、伊豆の保養所みたいな場所に泊まり込んで、約1週間、ずっと研修を行うのである。
まさに昭和の時代の研修であって、大きな声を出したり、叫んだりして厳しくやられるのである。さすがにもう最近はやっていないと思うが、その研修に行かなければならないことになった。
もう忘れてしまったが、駅に集合し伊豆まで電車で移動し、駅からはタクシーに分乗してその場所まで行ったように記憶している。場所は田舎の山の裾野にあった。
その研修担当官がやたらと厳しく、毎日のどがかれるまで大きな声を出したり、座学での研修が行われたりした。ダメだしばかりの研修で、実際は大きな声を出して歌ったり叫んだりした記憶しかなく(一体どんな研修なんだ)、そこで何を学んだかと言われても、全く記憶にない。
私はしかし、これを中身のないダメな研修だった、と言いたいわけではない。おそらく座学で学んだことはすぐに忘れてしまうし、当時は入職したばかりだったので、新しいことをたくさん学んだと思うが、今の自分にとって当然のことになっているから、忘れてしまっているのだろう。
ただ、内容はそれなりに大変だったので、早く帰りたいと思ったことや、厳しかったがゆえに同期の横のつながりは強くなったことは確かなことだった。
この研修はやはり職員からは評判がよくなかったようである。おそらく現在はほとんど厳しい研修などやってないだろうし、私が入職して数年後には取りやめになったはずだ(これはどこの会社でも同じかもしれないが)。
ほとんど気合と根性のような鬼の合宿みたいなものだが(怒られたり怒鳴られたりした)、実は私自身はこのような時間の必要性は感じてはいたのである。
自分の殻を破るとか、人前で自分をさらけ出すというような経験は、実は教師にとっては必要なものであると思っている。ダメ出しをたくさんされて、否定されることもある。また、大きな声が出せることも、実際に出すかどうかはともかくとして、教師には必要な面もあるように感じている(胆力というやつだ)。
このような昭和生まれの人間が喜びそうな話をすると、昨今の教育評論家からは大きな反発を食らいそうだが、実際に私にとっては、この研修の経験は、別の意味で非常に役に立ったと言えるだろう。
それまでは、人と緊張感をもって話すことも少なく、大きな声を出すこともなく、感情や心の本心を思い切り出すこともなかったから、本当にいい経験になったのである。また他人に厳しくされたり、NOを突き付けられたり、叱責されたりした経験があまりなかった私にとって、ある意味では新鮮だったともいえる。
私自身は、ここから16年間、かなりの長時間労働や、また学生指導の疲れ、結果の出ない時期や、ストレスに囲まれたりしても、この仕事をやり続けることができたのは、ここでの経験のおかげでもあった。
16年後に専門学校を退職した後も、様々な仕事をしたが、正直な話、実際にはすべての仕事が、この学校での仕事に比べると、私にとっては「楽」な仕事だと感じたことは事実である。
この専門学校で学生を鍛えるという気持ちで仕事をしたが、鍛えられたのは実は自分であり、強靭な耐性を身につけることができたことだけは間違いがない。
この専門学校での経験がなかったら、その後の私の人生の経験もなかったし、キャリアもなかった。ここでの経験の蓄積は、私にとっての貴重な宝物だったのだ。
その最初の、扉がこの理不尽な新入職員研修であったことだけは間違いない。
社会に出ると、ある程度の理不尽さはつきものであるし、それに耐えられなければ、その理不尽を改善することも、そこで実績をあげることもできない。理不尽であるからと、やめてしまっていたら、おそらく今の自分は確実に存在していない。
理不尽とでも言える経験が、この社会で生き抜く力になることもあるということは、若いうちに経験しておいてもいいプロセスであるように私には思える。
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