教育者としての人生のはじまり
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その60
専門学校の講師の仕事に応募して、無事に内定をいただくことができた。
11月1日からの出勤と決まった。それは私が28歳の年だった。かなり遅い社会人としてのスタートだ。
今まで勤めていた虎ノ門病院の仕事を終えるとき、病棟で送別会を開いてもらった。
この病院で、仕事を通じて知り合った人は非常に多く、患者さんや病院のスタッフから学んだことは本当に多かったし、今でも私の貴重な財産だ。
病院という現場の仕事の大変さは想像以上であったし、病気で入院している患者さんに教わったことや、入院してもついには亡くなってしまった患者さんとの記憶は今でも忘れることはない。
病院で毎朝、毎朝一人で勉強していたこともいい思い出になった。
これからは、自分が学んだことを多くの学生に伝えながら、また自分も、違った意味での勉強を続けていかなくてはならない。しかしそれは、私にとって、非常に楽しみなことだった。
自分の知識や学力に自信は全くなかったが、24歳から28歳までの4年間、多くの人びとの間で揉まれながら身につけたことは、きっと自分のためだけでなく、多くの学生たちのためになるのだろうし、彼らの人生のなんらかのたしになるに違いない。
1993年11月1日。
この日に、東京法律専門学校での教師としての生活が始まった。
そこから、その学校での16年あまりの教師生活。そこでも多くの学生たちに出会い、たくさんのドラマがあった。
この年齢になって思うのは、自分の人生を物語にしたときに、自分で納得できる物語が出来上がるのかどうか、それが重要だということだ。
短調でなんの感動も変化もない人生はむしろ学ぶべきことも少ないのではないだろうか。だから、失敗や挫折や転落を気にすることはない。それもまた、大きな物語の中の一幕であり、そこから何を学び、自分をどう成長させるのかが、人生の価値を決めるのだ。自分の人生を面白い物語に仕立て上げることは、きっと誰にでもできることである。
内村鑑三という人の本に、「後世への最大遺物」という本がある。
自分が死んだあとに、著書という形で思想を残す人、多くの財産を残す人、名声を残す人、色々な遺物があるが、誰でも残すことのできるもの。
それは、その人固有の人生の物語。あるいは生き方そのものだ。
そこに感動があり、多くの学びがあり、人間としての成長がある、そんな物語を描いていきたいものだ。その物語をどう描いていくかは、本当はすべて自分で決めることができる。
失敗や挫折も、後には大きな教訓やドラマとなる。運命に翻弄される人生などない。川の流れも、海の潮の流れも、確かに変えることはできないが、その中でどのような方向に舵を切るかは、自分で決めなければならないし、決めることができるのだ。
少なくとも、自分が後々、自分の人生を振り返って、多くの後悔を感じるような、「もっとやりたいことがあったのに」、と感じるような、そんな生き方だけはしたくないものだ。そして、自分の人生の不満を、誰かのせいにしたり、運が悪かったと言って言い逃れをしたりするような生き方はしたくないものだ。
人は、死の直前、やったことよりも、やらなかったことを後悔するという。
私は、そんな人生の貴重な意味や価値を、これから出会う学生たちに、伝えることができるだろうか。
学生時代をいかに生きるかーまとめ編― 完
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