希望の国の若者たちへ
日本はこのままでは絶望的な貧しさと衰退を迎える。
それはまともに国家の状況や社会的な問題、政治的な政策や経済の状況を見ればよくわかるはずだ。
もちろんそのようなことに興味をもたない者にとっては、毎日の生活は変わらず、それなりに恵まれた環境の中で生活しているに違いない。
そして決して大きな不満もない生活の中で、今日も日々楽しい人生を送っていることだろう。
日本だけをとってみると、一時は経済的な繁栄を見せ、その経済力や技術力は高く評価され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとも賞賛されたものである。
しかし、今や日本の企業は衰退し、国民の所得は増えることもなく、国家の財産である土地や資源、施設や人間までもが、外資に買いたたかれるような時代を迎えている。
こうして日本は、静かに静かに支配されつつ沈んでいくのである。
これに対して、これからの未来を生きる若者に、希望はないのか。
結論を言おう。このままではもちろん希望など全くない。やがては海外に出稼ぎに行くか、日本ですでに外資に買われた企業の中で、安いままに使われることになる。
なぜ日本は、このような事態になってしまったのか。もちろん政治が悪い、企業が弱い、国民も競争力を失っているなどと様々な理由はあるだろう。
しかし、もっと根本的な理由がある。
それは、若い世代の人間も含めて、国民に、日本国に対する「愛」がないからである。それと同様に自分の属する地域や会社などの組織、そして家族に対する「愛」が薄れてるからである。
日本は住みやすいから好きだ、とか。街も綺麗で人は親切だから好きだとか、犯罪もまだ少なく治安がいいから好きだとか、そんな人はたくさんいる。また日本の選手がスポーツなどで活躍すると喜び、世界の大会では日本を応援しているという人は多いはずだ。
しかし、そこに「愛」はない。
「愛」の反対は憎しみではない、「愛」の反対概念は「無関心」であると言われる。
まさにそうである。
日本人が、日本のことに関して「無関心」であること。これが日本の衰退の最大の原因なのである。
自分の生活環境としての日本が好き。自分の興味の範囲で日本が好き。芸能やスポーツなどで日本人を応援する。それはしかし、日本国という国家に対する「愛」ではない。
日本という国の、過去から将来を見据え、この国の在り方に関心を持ち、この国の現状や課題に興味をもって、自分として何らかの積極的行動をとろうとすること。これが日本国に対する「愛」である。
そこには日本に対する学びや行動による参加が必要とされる。
自分の属する地域や国の在り方に関心を持ち、学んだり調べたり、考えたりする。機会があれば、その在り方に少しでも影響を与えようと行動する。これが日本国に対する「愛」の表現だ。
このような行動をとらない国民がおそらくは半数以上に及ぶことだろう。
選挙権ひとつをとってみても、それを行使するという最低限の義務すら果たさない国民が半分以上はいる。
もちろん、投票行動をしているからとて、日本に対する「愛」があるかと言えば、そうとも言えない。政治家が、国民の歓心を買うようなことばかりを主張し、宣伝し、国民は自己の個人的な欲得のために投票しているからである。
だから、日本国は静かに沈むのである。
国民は日常の生活に追われているから、国家や社会に関心を持ち勉強する時間がないのだと、弁解する人もいる。
本当にそうだろうか。
どんなに忙しく、貧しくても、そのような時間が全く取れない人は、日本にはほとんど存在しないと言っていいのではないか。
自分の利害ではなく、国家や社会の公的利益や公的幸福の追求のために。
毎日少しずつでも、日本国への「愛」を具体化することができれば、確実に日本は変わり、そのような行動をとる人が増えれば増えるほど、日本は希望の国になる。
そのような国になって、自国愛にあふれた国民に満ち溢れたならば、世界はますます日本に期待するだろう。日本にそこまでの力があるとは信じないかもしれないが、日本は独自の文明圏として、世界の平和や発展に貢献できる大きな力がある。
その期待に応えることが、求められているのだ。
そして、その期待に応えること。それが世界に対する「愛」でもある。日本から世界に向けた最高のギフトなのだ。
日本は世界の希望の国。しかし、それはそこに属する国民が、その使命に目覚め、その行動を自覚的に取らなければ、決して実現しない。自分の生活だけ、自分の狭い世界だけ、自分の興味や楽しみだけ、そんな世界を生きていては、決して実現しないのだ。
希望の国の若者たちの目覚めが必要である所以である。
Share this content:
コメントを残す