学び続けることの必要性
私が読書や学問に目覚めたのは、大学時代に友人から勧められた1冊の本がきっかけだった、ということは「物語 学生時代をいかに生きるか(読書の黎明)」の中で述べた。
その1冊の本とは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」という本である。
幕末に生きた一人の若者について描かれた歴史小説によって、私の読書と学問に対する意識が開かれたのである。
この本を書くために、司馬遼太郎という作家が、神田の古書店で大量の資料(トラック数台分の)を買い集め、それをもとに歴史小説に仕上げたのがこの「竜馬がゆく」という書物である。
その意味では、ある程度の史実に基づき、事実に即している面があり、この本を読んで、私の中で高校の教科書で学んだだけの人物が、歴史の物語の中で生き生きと躍動し始めたのである。
また、この小説で描かれた「坂本龍馬」という人物の魅力に惹かれた人は多かったのではないかと思う。この人物の行動力や一介の浪人でありながら、幕府や雄藩の要人と関係を築き上げ、幕府を倒す大きな役割を果たした実績は、多くの人を魅了したに違いない。
もし私が、この小説によって理解した幕末や坂本龍馬でとどまっていたら、私の認識はそこで終わっていただろう。いわゆる、大河ドラマなどの幕末のヒーローとして。
しかし、私は事あるごとに、幕末や明治維新に関わる書物を読み続けてきた。
そうしているうちに、この坂本龍馬に関する認識が変わってきたのである。
彼は果たして、司馬遼太郎の小説に書かれた人物像だけで語りつくせる人物だったのかどうか、ということである。
また、古い幕藩体制を壊して、日本を明治維新という近代化に推し進めたことが必ずしも正義とは言えない事だったとしたらどうだろう。明治維新は、それほど手放しで賞賛されることだったのかどうか、という疑問に行きついたのである。
坂本龍馬は土佐藩を脱藩して、一浪人として行動している。もちろん比較的豊かだった実家坂本家から金銭的支援を受けたこと、そして長州や薩摩などの雄藩から、一定の援助を受けたことは事実であるにしても、これほど日本中を飛び回り、亀山社中において多くの浪人仲間を食べさせていた事実から、他に資金源があったのではないかという疑問が湧いたのである。
私の地元である長崎には、グラバー園がある。トーマス・グラバーという人物が明治維新に関わっていたことは事実であり、グラバー商会はイギリスの東インド会社と関係があることもわかっている。
日本の明治維新は、日本人だけで成し遂げたわけではなく、イギリスの大きな影響を受けていたことがわかる。
最近、グラバー園の屋根裏部屋(秘密部屋)が見つかり、そこでグラバーが多くの幕末の志士たちと密談をしていたであろうこともわかってきた。
日本の明治維新は、イギリスによって煽動され、支援され、導かれたということが明白になってきたわけである。
そう考えると、坂本龍馬はイギリス(グラバー)から資金援助を受け、倒幕を推進していたのではないかという推測が成り立つ。彼は独力で倒幕の力になったのではなく、イギリスの代理人だったのではないかという可能性が出てきたわけある。
こうなると手放しで坂本龍馬を称賛するわけにはいかない。その意味で、また龍馬の別の人物像が浮かび上がってくるのである。
これは様々な文献や歴史学者の最近の研究も加味することで、明らかになってきた、新たな坂本龍馬像である。
私はこれによって、坂本龍馬の実績を否定することはしないまでも、彼の背後にいたであろう存在から、明治維新の評価がこれまでとは大きく変わってきた。
それと同時に、江戸幕府に関する評価も変わってきたのである。
これは一つの例にすぎないが、まさにこれが学び続けなければならない理由でもあるのだ。
私が、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の段階で読書をやめていたら、この新しい視点は得られなかった。
坂本龍馬に憧れ、明治維新は、素晴らしい革命だったという認識を続けていたことだろう。
しかし、事実は必ずしもそうではなかった。別の視点や事実を知ることで、さらなる歴史やそこに出てくる人物の深みが理解できるようになったのである。
そして、これは現代の社会を考える場合にも、複数の視点を与えてくれるのである。現代の社会現象を見る目も変わってくる。
私たちは、少し学んだだけで、わかったつもりになることが多い。それ以上の探求を続けなれば、真実は見えないのにも関わらず、それ以上に学んだり追求しようとはしない。
日本人の多くが、まさにこのような思考停止に陥り、それ以上を知ろうとはせず、学び続けようとはしない。調べることも、疑って確認することもしない。それによって、認識や思考が硬直化し、それ以上に進めなくなっている。最も典型的なのは教科書やマスコミの情報を鵜呑みにして、そのままになっている状態だ。
学生時代はもちろん、社会人になっても、学び続けなければならない理由は、そうしなければ自分の真実、他人の真実、社会や世界の真実が見えてこないからである。
硬直した認識世界の中で判断し行動しているとしたら、それが正しいものに近づいていく可能性はゼロに近い。
学び続け、調べ続け、確認し続ける。
このような習慣なくば、他人の作った情報や知識に左右され、その狭い枠組みの中で、飼われ続ける羊となるしかない。
自分のこれまでの常識を壊し続けることだけが、真実の世界認識の中で、より正しい判断を生み出す唯一の方法なのである。
だから、学び続けなければならない。学びを止めてはならないのである。
それは私たちの認識と、それに基づく行動を、より正しいものにするために、欠かせない行動であるからだ。
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