受験秀才の限界ー哀れな偽エリートたちへ
受験で優秀な成績を収めて、いい大学に進学し、その後も社会に出て、素晴らしい働きをする人がいる。
一方、受験勉強はよくできて、いい大学に進学し、優秀な人しか入れない企業などに就職しても、その後全く仕事ができずに、没落していく人がいる。
このように、受験勉強ができても、さらに優秀さを発揮する人もいれば、逆になる人もいる。
さて、今の日本の中央官庁は基本的に、一応受験勉強の勝利者である官僚が動かしている。
その限界が見えているのが、今の日本だ。
受験秀才の限界とは何だろうか。わかりやすく言えば、プライドが高く、決められたことをやることは得意。答えのない問題は後回しで失敗や失点を恐れる。言い訳が得意で、自分たちの失敗を認める勇気がない。自己保身のために懸命になるが、本当に国民や国家のために仕事をしない。これが受験秀才の限界だ。もちろん受験秀才でも、このようなことにはならずに、さらに優秀になっていく人もいる。
さて、この受験秀才の弊害の例を挙げよう。
「安倍晋三回顧録」という本の中で、安倍元首相が、財務省の問題点について触れている。財務省について「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なんです」「省益のためなら政権を倒すことも辞さない」などと批判しているのだ。
これに対して、元大蔵事務次官の齋藤次郎氏は「荒唐無稽な陰謀論」だとして、「財政規律を守ることが国を守ることだ」「財務官僚は国を破滅から守るために必死で仕事をしているのだ」と反論しているのだが、さてこれはどちらが正しいのだろうか。(ちなみに陰謀論という言葉は、陰謀を行っている人間が作った言葉だ)
結論から言えば、元大蔵事務次官の齋藤次郎が完全に間違っている。このように東大の法学部を出て、大蔵省に勤め、出世し、事務次官まで上り詰めた人間が、間違った財政観や貨幣観を持っているのである。ここに財務官僚などの受験秀才の陥る最悪の悪弊が存在する。
基本的に彼らの間違いはただ一つ。
財政規律を守らなければ国が破滅するというもの。
こんな事実とは全くかけ離れた幻想を信じ続けているのだから、日本を豊かにする政策などできるわけはない。また財務省の出世の基準は、いかに増税に貢献したかが基準であるという。いかに国を豊かにしたか、国民を豊かにしたか、ではないのだ。
これが税金から給与を得ている国民の下僕である官僚の実態だ(下僕にすぎないのに、自分たちが愚かな国民を指導し、導いていると勘違いしている)。
日本は財政破綻しない。財政収支の赤字や黒字は、全く健全な財政政策の基準にはならないのに、財政規律を守ることにしがみつき、それを正しいことだと思い込み、まさに洗脳された哀れな受験秀才の姿がここにある。
このように書くと、財務官僚は悪人ばかりなのかと思うかもしれないが、公務員個々人は真面目で勤勉で、使命感を持った普通の人たちである。だから怖いのだ。組織の風土や間違った信念が、いかに普通の人をして悪魔の所業をなさしめるか、研究してみたらいいだろう。
だから、私の言うことは公務員個々人に対する批判ではない。ただ組織の中の価値観でしか仕事ができないという意味で無能レベルに達しているのだ。
その意味では、受験での優秀さと、本当に国家にとって、国民にとって優秀な人材は全く別物であることがわかるだろう。
なぜ、この愚かな財務官僚が間違っているのか。単純な理由である。日本国政府には通貨発行権があり、自分で通貨を生み出すことができる。国民が貧しく、民が苦しんでいたら、政府は国債という名の通貨を発行(財政支出で国民に貨幣を供給)し、国民を豊かにできる。
もちろんそれを行えば、政府としては負債として記帳されるが、その負債を減らそうとして増税をやると、国民が持っていた資産が政府に召し上げられ、国民は貧しくなる。
政府は、極端なインフレで経済が混乱しそうなときは増税や政府支出を削減し、市場のお金を減らすことが必要だ。一方、経済が回らず、国民が貧困化しているときは、どんどん国債を通じて通貨を発行して国民にお金を流す。
このような調整機能こそが、政府(財務省)の役割であり、帳簿上黒字か赤字かなどということは、実は全く問題ではないのである。とにかく通貨発行権のある国家の財政を、家計と同様に考えないことが大切だ。
こう考えると、大物なんて言われている高学歴の官僚が、一つの思い込みによって国の財政支出を妨げ、増税路線を突っ走ることがいかに愚かなことであるかがわかるはずだ。しかし、この愚かな元大蔵官僚をはじめとして、現在の財務官僚もこの思い込みの中にある。
私は、財務省は実はこの事実に気がついているのだが、この事実に国民が気づいてしまい、これまでの財務省の間違った政策が国民に知られたら、一気に無能集団のレッテルを貼られ、自分たちの大きな過ちが明るみに出ることを非常に恐れているのだ、と思っている。
財務官僚の中には、財政規律が至上命題であることを心から信じている単純に勉強不足の人もいるだろう。そこには他の意見に耳を貸さない受験秀才にありがちなプライドや高慢さがあるのかもしれない。
あるいは事実や自分たちの間違いに気がついてはいるが、それを認める勇気もなく、プライドが許さないために必死でそれを隠蔽し、自己性正当化のためのロジックを必死で考えている一部悪質な官僚たちがいるということだ。
このどちらも、受験秀才に特有の行動パターンではある。
別の意見に耳を貸さないことは自分たちこそが最も優秀だと勘違いしていることからくる無能さ。高慢さ。
本当のことを知っているのに間違いを認めて謝罪しやり直す勇気がなく、嘘とでたらめで国民を騙し続ける狡猾さ。
これが彼らの間違ったエリート意識と優越的な意識からくるもので、受験の世界で優秀だと評価されたことからくる最大の誤謬である。
真に優秀な人間は、自分とは違った意見からも学び、間違っていたら素直に反省し、事実を直視し、何よりも他人の幸福を考えられる人間である。今の官僚の多くが、このような基準を全く満たしていないことは明らかだろう(これは政治家も同じだ)。
国民はこのようなエリートを気取った愚かな人間に、いつまでも騙されていてはいけない。
自分たちが正しい、財政規律を守ることだけが国を守ることだと信じて、異なる考え方ができない官僚。これを最近では「ザイム真理教」と呼ぶ人がいる。
かつて「オウム真理教」という宗教が、自分たちの間違った信念のために多くの人をサリンで殺戮したように、ザイム真理教の官僚たちは、「増税」と「政府支出削減」「財政規律が全て」によって多くの人を殺戮しようとしている。
これはやや言い過ぎかもしれないが、やっていることは間違った宗教団体と同じなのだ。貧困化で命を失う人は決して少なくはない。
そして「オウム真理教」にも、多くの高学歴のエリートが参加していたことも共通している。
多くの国民が受験秀才の限界に気がつき、彼らの間違いを糺し、反省させなければならない。それができるのは国民一人一人しかない。
そうでなければ、間違った政策によって、国民はさらに貧困に追い込まれるだろう。ここ30年の日本の凋落の多くの責任は、この緊縮財政によるものだ。
もはや偏差値教育や、受験のための教育の時代は終わろうとしている。
まさに学校教育で優秀だと言われていた官僚が、大きな間違いによって国民を不幸にし続けている現実をみることで、それは証明されている。巷の市井で一生懸命に自分の仕事に誠実に取り組んでいる一般国民の方がよほど優秀なのである。
受験秀才の限界、ここに極まれり。真の優秀さは「国民の幸せを考えて行動できる」ということに尽きる。公務員になろうというその動機が、自分たちの生活の安定やエリート意識だけであったなら、さっさとやめて別のところで働け。
君たちは公務員試験の受験時、面接で志望動機をどう語ったのか。「日本のために、日本国民の幸せのために」と口にしなかったか?その志の灯はもはや消え失せたか。
真のエリートは国民の幸せを第一に考える高貴なる義務を持った人々のことだ。日本の官僚のほとんどはとてもこのような人間とは言えない。
また、国民は、このような受験秀才の牙城を「偉い人たち」「頭のいい人たち」などと崇めることなく、その政策を高いインテリジェンスをもって厳しく批判、検証していかなければならない。
この国の主である国民が賢くなって、このような国の在り方に終わりを告げなければならない。
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