厳しかった語学の先生たち
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その37
当時の大学時代は教養課程というのがあって、外国語を二つ勉強しなければならなかった。
今では大学の大綱化ということで、カリキュラムはかなり自由に組まれているが、私の学生時代には在学中1年半は教養課程に在籍するという形だった。
英語はもちろんのことであるが、もう一つ外国語が必修になっていた。
ドイツ語かフランス語から選ぶような形であったと思う。
どちらにしようかと迷ったが、なんでもドイツ語の先生がやたらと厳しいといううわさがあり、私は留年だけは絶対にできない身分だったので、単位を落とすことを恐れて、フランス語を選択した(全く主体的、積極的な選択ではなかった)。
ところがふたを開けてみると、ドイツ語を選択した学生が多くて、フランス語は少数派だった。しかも授業に出てみると先生がやたらと厳しい。
どんどん指して発言させるし、授業中も学生には厳しかった。単位もとれるかどうかわからない。
これは、今考えるととてもいい先生なのだが、当時は「勘弁して欲しい」と思っていた。
試験はかなり厳しいのだという話だったので、焦りに焦った私は、夏休みも図書館に出かけて、フランス語を必死で勉強した(これが厳しさの効用である)。
1年の前期末の試験では9割以上の点数は取ることができたので、単位を落とすことはなかった。
ただ、後期になるとさらに難しくなり、2年の前期はさらに難しくなったので、ひたすら留年の恐怖から逃れるためだけに必死で勉強したものであった。
事情があって、再びフランス語の勉強をしていたことがあったが、当時(20年以上前)に必死に叩き込んだ知識のおかげで、1からやるような苦労はしなくて済んだ。大学院の時代には、フランス語の方が英語よりも読めるようになった。
若い頃は、何でもやっておくべきなのだな、と心から思う。
当時うらめしかった厳しい先生方に、感謝する気持ちがわいてくるから、人間というものは勝手なものだ。
そして、今大学生に指導する立場に立ってみて、学生は厳しいことでも正しいことなら喜んで受け入れる素地が十分にあることを実感している。
大学では厳しい先生というのは以前よりも少なくなったかもしれないが、そんな先生がいたら、是非授業を取って、挑んでみて欲しい。
得られるものがきっと大きいだろう。
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