偏見と思い込みを捨てる

偏見と思い込みを捨てる


学生時代をいかに生きるか まとめ編 その46

私が大学に入学した当時も、大学内には実に色々な人がいた。

大学はスポーツ系、文化系、様々なサークルなどがあり、活動団体もあった。このような現状は、今の大学も変わらないだろう。

政治的な活動、宗教的な活動なども盛んで、あちこちで勧誘などが行われていたものである。おそらくは今の大学生たちが絶対に近づかないような団体にも平気で出入りして話をきいたり、仲良くなったりしていた。

私は、大学に入ってしばらくして、心に強く決めたことがあった。それは決して他人にレッテルを貼らないこと。実際にその人にじかに会って意見を聞いたり、考えを聞いたりするまでは、判断を保留する、という態度だった。

大学にも色んなうわさは流れていて、特に宗教や政治に関する活動を行っている人に対しては、根拠に基づかないうわさ話やレッテル貼りは本当に多かったのである。

私自身は大学時代には、どこの団体や活動にでも、興味の赴くままに出かけていき、その人たちに直接話を聞いたし、そうするまではうわさ話や他人の判断は容易に信じなかった。普通に一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んでお互いの話をしたりした。

人間が考えること、行うことには必ず理由があり、根拠がある。

それを知った上で物事やその人を判断するならば、それはまだいい。

しかし、現代ではマスコミや人のうわさ、根拠のない流言などは本当に多く、それを判断の根拠にしている人が実に多いのである(インターネットが普及してさらに拍車がかかった)。

それは学生も同じだし、ある意味では社会人でも同じかもしれない。

実際に大学の中での様々なうわさ話に反して、私が直接に会って話した人の言うことには、それなりの正当性や根拠があったし、うわさ話とは全く違う世界がそこにはあった(もちろん間違っていると思えることもあった)。

また、彼らは自分なりの根拠や信念などがあって、そこに所属し、活動している。それはそれでいいのではないかと思う。私は(サークル以外)どのような団体にも所属はしなかったし、彼らの要求に応じることはなかった。それは彼らが自分の信念でそうしているように、私も自分の信念でそうしていたからであり、どちらかがどちらかに吸収されなければならない理由などない。

しかし、彼らと接していて、直接話を聞いて、自分で確かめることの大切さを本当に実感したものであった。

もちろん騙されるとか、色んな被害に遭うかもしれないなどという不安や恐怖があるのかもしれないが、結局そうしているのは自分自身であり、自分の判断なのである。

ただし、もちろん洗脳という言葉があるように、様々な考えや多角的なものの見方はできなければならないことは言うまでもない。

やがて社会に出て行けば、そこは組織や限られた世界でのうわさ話のオンパレードだ。会社の間違った方針や社内のうわさ話やゴシップに流され洗脳されている人間が、政治や宗教的信念で活動している人々を批判する資格があるとは思わない。

また、現代はマスコミに洗脳されている人の多いことを考えても、多数派だから正常だとか、正しいということにはなるまい。

相手が誰であれ、学生時代のうちに、直接自分の目で見て、話を聞いて、確かめる。そして自分の意見をぶつけるという経験をたくさん持って欲しいものだ。

他人の意見や考え、世間のうわさや評価などによって安易に他人をわかったつもりになるのではなく、自分で直接に会って話したらよい。

そうすれば、数多くの人々が自分なりの立場と根拠と理由をもって生きている様を、そこに見ることができるだろう。

そして、人を本当に理解することの難しさを知るだろう(分かり合う難しさも)。

他人に対して(自分に対しても)容易にレッテルを貼るようなことができないものであることを知ることが、自分の世界を大きく広げる一歩になる。

知は力である。本当の意味で、自分を知り、他人を知り、世界を知る力を、学生時代に養って欲しい。

Share this content:

投稿者:

山道 清和

日本の未来への発展と繁栄のために、日本の学生には自分から学び、考え、自分の意見を持つことのできる人材になって欲しいと心から願っています。就職や公務員試験に関する相談も受け付けています。遠慮なくどうぞ。

すべての投稿を表示

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Proudly powered by WordPress | Theme: HoneyPress by SpiceThemes