何のための議論?
大学院の時代に一度だけテレビ番組に出たことがあった。
政権与党が政局的にかなりピンチに立たされている時だった。
あるテレビ局でやっている討論番組。一つのテーマで朝まで色んな人たちが討論するという有名な番組だ(朝まで生テレビというやつ)。
私はその政権与党(自民党)の学生部に所属していたので、討論の一般参加者の席に座っていた。
偶然にも討論者の席には私の指導教授が招かれていた(本当に偶然でびっくりした)。
今はもう昔のことになってしまったが、当時は消費税問題や首相のスキャンダルなどで政局が不安定になっていた(今も似たようなニュースが多く、状況はあまり変わってはいないが)。朝まで延々と議論が続いた。
見ていて面白い場面もたくさんあったのだが、この議論で問題が解決するとは到底思えなかったし、みんなが言いたいことを言っているだけで議論と呼べるものなのかも疑問だった。
分析や評論は意見や世論の形成にとっては重要なのかもしれないが、現実はそのようなものとはかけ離れたところで動いている。
しかしそういう自分も責任ある立場で何か仕事をしているわけではなく、ただの学生に過ぎないという意味では何事もなしえない存在だった。
もちろん知識や情報だけで世の中が動いていくことはある。というか、実際は情報に動かされている。
正しい知識や情報は多くの人に共有されれば、社会を善導する役割を果たすだろう。
多くの人が正しい判断や選択をしていくことができたなら、この世の不幸は少なくなっていくだろう。
討論や議論は時として必要ではある。ただ一般の人々の生活世界を離れた場所での知識人だけの議論では、やはり限界があると思った。
たくさんの情報や知識が乱れ飛んだ討論番組ではあったが、徒労の感がぬぐえなかった。
私にとっては、このような議論の果てに、一体何があるのか全く分からなかったし、これで何かが前に進んだとも思えなかったのだ。議論は目的をもってするものであり、主張のぶつけ合いだけでは、朝までの時間がもったいなく、無駄にも思えた。
(田原総一郎には悪いけど、司会があれではね)笑
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