独りになることはできない強さ
大学時代に学んだ社会学で、よく読んだフランスの社会学者にエミール・デュルケムがいる。
「自殺論」や「社会分業論」などの著書があり、社会というものを考えるための大きな示唆を与えられた。
様々な文明の利器があり、現代では一人で家に籠っていても、生活できるようになった。パソコン一台あれば自分一人で生きられる、という人もいる。
しかし、社会発展はまさに「分業」によってもたらされたものであり、この「分業」を通じた人間同士のつながりこそが、社会の本質なのである。
自分一人で生きられるわけもないのだが、なぜかそう思い込める恵まれた環境がある。
自分が一人でも生きられると思うとき、冷静に自分の環境を見渡してみる。パソコンは誰が作ったのか、毎日食べる食物はどこから来たのか、そのスマホは、この本は、交通機関は、道路やインフラは?自分の手で一から作ったものなど、一つもないことに気がつくだろう。
私たちは過去から営々と築きあげられてきた「分業」の集積の上にいて、今現在もその連携の中にいる。
どんなに一人でいようと思っても、時間や空間を超えて、多くの人の「分業」の結果を享受している。
逆にどんなに孤独を感じても、手にしたコーヒーカップには必ず人の手が加わっていて、その背後にはあなたを支える多くの人々の存在がある。
どんなに着古した衣服であっても、それを作り、運び、売ってくれた人がいる。
一人では生きられないというだけではなく、どんなに孤独を感じても、人間は独りではない。
多くの製品や食物や、住居やインフラの中で生きる時、そこには必ず人の存在があり、多くの人があなたのそばにいる。
そしてまた、あなた自身がささやかな「分業」を果たすときに、あなたは多くの人を支えていることになる。
社会とはこのようなものであり、このようなものであり続ける。
一人の時にも、その側に多くの人々の存在を感じ、同時に自分一人の「分業」によって、多くの人々の側にいることができる。
それが社会である。
その本質を見抜くことができたなら、それだけで無限の人々との「有機的連帯」は可能になるのだ。
その意味で、人間は決して独りになることはできない。
人間はこのように、独りになることができないという非常な「強み」を有しているのだ。
Share this content:
コメントを残す