フリーター生活を脱出する
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その59
結局、大学院を修了してから4年間、フリーターとして様々な仕事をしてきた。
人生の成功や経済的な成功をおさめるためには学歴などはそもそも何の必要もないことが今にしてわかる。また経験だけがあっても、それが就職やお金儲けにつながるわけでもない。
大学院の時代も含めれば、実に数多くの人々に出会ってきたし、無数の本も読んできた。仕事もたくさんやったし、種類もたくさんこなした。
これまでの経験や勉強を何のために、どのように生かしたらいいのだろうと、そればかりを考えた。
世間ではいわゆるバブルが大きくはじけて、日本の景気や雇用状況は一気に悪化しつつあった。
このころには、自分自身で何か新しいことを始めたり、起業したりなどという選択肢は考えたこともなかったし、必然的にどこに就職するか、という問題に直面した。
その当時にやっていた様々な仕事、家庭教師、塾の講師、便利屋、病院の仕事などのうち、病院での仕事を残してあとはすべてやめて、本格的に就職活動に入ろうと決めた。
「この不況は長引くから、早くきちんと就職したほうがいい」
仕事の休憩中に病院の事務長が私にそんなことを言っていた。私もまったく同感で、この不況が長期間続いてしまい、容易に回復しないのではないかと思った。
就職の情報誌を立ち読みしたり、買って読んだりして情報を集め始めた。
やはり教育に関わる仕事しかないと思った。
自分のやりがいや生きがいはそこにしかないだろうと。
通常の就職情報誌に学校関係の求人が掲載されることは少なく、私が探した中でも、ほとんどが学習塾関係の情報だったと記憶している。
その中で、専門学校の講師の募集の記事を見つけた。
しかし、私が教えられることは少なく、専門性の高い知識を有していたわけでもなかった。しかしたくさん本だけは読んでいたので、一般教養のようなものは教えることができるのではないかと思った。
そこで、ダメもとで履歴書を送ってみることにしたのである。
これが、私がフリーターを脱出し、正式にいわゆる「正社員、正職員」として初めて就職するきっかけになったのである。
恥ずかしながら、当時は履歴書の書き方も知らず、また就職面接など受けたこともなかったので、準備としてはいい加減なものであった。
ただ私は、これまでにやってきた仕事や出会った人々から学んだことを明確に言語化することだけはできた。言葉や経験をてこにして考えるということは好きだったので、ほとんど毎日、日記を書いていたからだった。
またなぜ教育や学校に関わる仕事をしたいのか、という志望理由も明確だった。
だから何の準備もせずに面接に行っても、何とかなるだろうと高をくくっていたのである。
とりあえずは市販の履歴書を買ってきて、履歴書を作成した。当時、職務経歴書などは特に必要とされなかった。何度も書き損じながら何とか完成させ、郵送したのを今でもよく憶えている。
あとは連絡が来るのを待つだけだった。
これと同時に、他の求人にも応募してみた。
一つは塾業界、もう一つはあの有名なベネッセだ。
私が専門学校の求人以外に応募したのはこの2件だったが、ベネッセは書類で落とされた。塾の方は面接に来るようにという連絡がきたが、考え直して辞退した。
勝手な話だが、専門学校の講師の求人に絞った形となってしまったわけだ。
正直に言えば、自分が専門学校で学生たちに教えるなんていうことができるとはとても思えなかったし、その自信も全くなかった。
しかしなぜだか縁を感じて、とりあえずはそこの試験に落ちるまでは、ほかの活動は一切やらないことに決めたのである。
1週間ほどして、その専門学校から筆記試験と面接を受けるようにとの電話連絡を受けた。
これまでアルバイトの面接は何度も受けてきたが、正式に就職面接を受けるのはこれが初めて。スーツもリクルートスーツなどではなく、学生時代に何か正式な場所に出席するためにと父親が買ってくれたグレーのスーツしか持っていなかった。
面接の準備をしなければとも思ったが、お金もなくいろいろな情報収集のための本を買う余裕がない、というより、この時はどんな準備をすべきかの情報が全くなかった。私はこの当時家賃1万2千円の3畳一間の部屋を間借りしていて、狭い部屋に大量の本を積み重ねて生活していたから、余計なものは買おうとも思わなかった。
筆記試験もいったいどんな問題が出るのやら皆目見当がつかない。
しかも筆記試験と面接試験までの余裕の日数はほとんどない。腹を決めて、何もせずそのまま試験に挑むことにした。
それで落ちたらそこに行くだけの資格がないのだと考えて、また分相応の場所を探せばいい。そう思ったのである。
私の住む高円寺からその専門学校のある場所までは、電車で30分ほど。
試験の日は、張り切りすぎてかなり早く現地に到着してしまったので、古臭い喫茶店に入って、あまりおいしくないランチを食べ、めったに飲まないコーヒーを飲みほしてから面接場所に向かった。
受付で名前を言うと、ロビーで待つように言われた。
そこには私と同じ採用試験の受験者が5~6名座っていて、緊張した面持ちで座っていた。そんな他人を見ていると自分もだんだん緊張してきて、無謀なことをしているような不安に駆られたりしたものだ。
その日は説明会と筆記試験、一次面接をいっぺんにやるということで、かなり長い時間拘束された記憶がある。
説明会ではその学校の紹介ビデオが流されて、仕事内容の説明が行われた。
しばらくの休憩が取られて、次はいよいよ面接試験である。
筆記試験は一般教養の試験だけで、専門知識は問われなかった(専門学校なのに不思議だと思った)。
ちなみに筆記試験では埼玉県の県庁所在地を「大宮市」(当時は浦和市、現在はさいたま市)と自信満々に書いたので、私の知識教養もたいしたことはなかったのだが。
面接に関して、私は完全に個人面接であると決めつけていたので、休憩中にあれこれと勝手にシュミレーションしたりしていた。
ところが、面接の始まる直前に係りの人がエレベーター前に全員が順番に並ぶように指示をしたのである。
その順番で面接室に入るように説明を受けて初めて、私はこの面接試験が集団面接であることを知った。もちろん正式に就職面接など受けたことはなかったので、入退室のマナーや手順もまるで知らなかった(こんな私が翌年には学生たちに面接の方法などを指導していたのだから世の中は全くわからないものだ)。
私は前から三番目だったのだが、恥ずかしいことに前の人の入室の仕方の真似をして部屋に入っていった。
集団面接の受験者は6人。
面接官が4人だったと記憶している。
集団面接の難しさは、どうしても自分以外の受験者の受け答えを意識してしまうことである。
前の人が自分の考えと同じようなことを言えば、違いを出そうとして別のことを言おうとしてみたり、あれこれと気を使ったりしてしまう。
最初の質問が、説明会で流されたこの学校の紹介ビデオの感想だった。
順番に答えるように指示があったので一番の受験者がしゃべり始めた。どう答えようかと考える時間があるところは集団面接のいいところだ。
私は学生時代に無目的で退廃的な学生たちの姿を、嫌というほど見てきたので、その専門学校の紹介ビデオでみる学生たちは非常に新鮮に見えたものだ(もちろんそのような場面だけが美しくビデオ化されているわけだが)。
基本的に専門学校は目的意識が明確な学生がほとんどで、また修業期間も基本的に2年と短いために、非常に密度の濃い学生生活を送る。
協力して勉強したり、協力して学校行事をやり遂げたりする学生の姿には素直に感動したものだ。
面接ではそのことをそのまま語った。
当初は緊張や様々な思惑もあったが、他の受験者の話を聞いているうちにだんだんどうでもよくなってきて、全て正直に、本音で話してやろうと思った。
なにぶんフリーターだった私は、職歴もなく、たいした知識もなかったので、受かればもうけものだと思い、あれこれとめんどくさいことを考えることをやめたのである。
フリーターの時の経験や出会った人々、自分の学生時代に関して、普段考えていたことをそのままに話した。
この当時はまだ虎の門病院で看護助手をしていたのだが、看護助手の仲間たちや看護師さん、そして患者さんといろいろな話をたくさんしていて、自分の考えや生き方を理解してくれる人がたくさんいてくれたことで、それを言葉にして語る習慣ができていたのだ。
自分のことに関して聞かれた内容に関して面接で困ることはなかったのである。
その意味で、これまでのアルバイトや虎の門病院で出会った多くの仲間たちや看護師さん、患者の皆さんには今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。
自分の言葉は自分自身の力だけでは、決して紡ぎだすことはできないからである。
面接試験に合格する自信はなかったが、言い残したことや、うまく言えなかったということはなく、後悔の全く残らない面接になった。
面接を終えて電車に乗り、高円寺の自室にもどって、また明日の準備を始めた。
朝の4時30分に起床して6時には病院へ。2時間勉強や読書をしてから仕事に入る。この時も、この習慣は続けていた。
朝の4時30分に起きて、それからいつものコインシャワーに向かった。
今はあまり存在していないが、100円玉を入れることで5分間シャワーが出るコインシャワーというものが近くにあった。
お風呂のない物件などは当時結構あって、銭湯なども近くにあったし、利用者もそれなりにいたものである。しかし銭湯はそのころから値段が高くなっていて、毎日利用すると結構な金額になってしまう。
病院の仕事なので、清潔さは要求される。私は朝からいつもこの100円シャワーを利用していた(後で、病院にはスタッフ用のシャワールームがあることを知った)。
5時30分過ぎには電車に乗って虎の門病院に向かい、24時間開いている職員の休憩室(確か8階にあった)で勉強を始める。読書が中心だが、語学だとか法律だとか、好きな勉強をする。
ナースエード(看護助手)の仕事は8時から始まるので、少し前に病棟に行き、準備をする。夜勤の看護師さんたちが仕事をしている。時間が不規則で本当に大変な仕事だ。
この仕事で、どれだけ自分の健康に感謝したかわからない。人間が健康を害したら、本当にどんな人もその能力や可能性を、ことごとく制限されてしまう。
芸能人、政治家、一般の人々。ここでは誰でも1人の患者だ(ここでは、色んな芸能人や政治家や著名な学者に会った)。
私は専門学校の採用試験を受けているときも、残り少ないこの病院での経験や出会いは大切にしなければと思っていたし、そうしていた。
ただこの段階では採用試験を受けていることなどは誰にも内緒にしていた。どこかに採用が決まるまでは、この場所で働き続けるつもりだったからだ。
専門学校の講師に採用される自信はなかったのだが、いずれにしても、この病院を出ていく日が近いことだけは確かな気がしていた。
今では就職試験の結果はメールや携帯電話で連絡が来るだろうが、当時、携帯電話はほんの一部の場所で使われていたにすぎない。
インターネットも一般には普及しておらず、情報という意味では、ほぼ何もないに等しい。
私は固定電話はあったが、採用の合否は先方からの郵便のみとなっていた。
一次面接の合否結果は、郵便で送られてくるのをただ待つしかなかったわけである。
私と同じ日に面接を受けたメンバーは、すでに社会人として立派な実績のある人もいたし、深い専門知識を有する人もいた。
畑違いの看護助手である私が採用される可能性は高くなかっただろうと思う。
可能性があるとすれば、その専門学校には「公務員試験」を目指すコースがあり、一般教養試験や法律、経済学などの知識が必要とされたことと、完全担任制をうたっていた(当時)専門学校だったので、一部の専門家よりも知識の幅が広い人間のほうが向いているという面があったことだろう。
私は読書だけはしていたので、自分の知らない分野でも一から勉強すれば教えられると思っていた。要するに、日本語で書いてあれば、読んで理解できない本はないという勝手な自信を持っていた。
所詮人間の書いた本であるし、人間が作ってきた専門分野だ。理解は可能であると。
学生時代に多少学んだ専門分野の本を古本屋で何冊か買って、勉強し始めたころ、その専門学校から一次面接の合格の封書が届いた。
フリーターだった私が専門学校の講師に応募して、二次面接に進んだ。
その間も虎の門病院での仕事は続いており、毎日が病棟と検査室との間を走り回る日々が続いていた。虎の門病院には、職員に専用の図書室があり、昼休みなどはそこで勉強することも多くなった。
ただ、かなり体が疲れていて、体が動いていないときは眠くて仕方がない。病院での仕事は重労働でいつも足が重たかった。
通常は月曜日から土曜日まで病院の仕事があり、専門学校の採用の二次面接は、日曜日にしてもらった。
指定された日曜日の午前、電車に乗って錦糸町まで向かうつもりだったのだが、前日から台風が吹き荒れており、中野まで出たところで、電車がストップ、それ以上はすすめなくなった。復旧の見通しがなかったので、駅の公衆電話からその旨の電話を入れて、二次面接はキャンセルになった。
なかなか前に進まない感があったが、結局二次面接はそれからさらに二週間後の日曜日に行われた。
聞かれた質問は、一次面接の内容とほぼ同じで、今度はさらに自信をもって答えられたと思う。
この面接で合格となれば、あとは健康診断を受ける。
それで問題がなければ正式に採用だ。フリーターになってからというもの、健康診断など受けたこともなかったが、自分の健康だけは過信するほどの自信をもっていたので、面接に合格すれば大丈夫だろうと思った。
最近は面接や就職の対策本などがたくさん出ている。情報が多くて、学生たちも大変だろう。
私は自分が専門学校の講師になって、学生の就職などをサポートする立場に立つまでは、就職の対策本などを読んだことは一度もなかったし、当時はそれほど多くの対策本も存在していなかった。
長い不況を通り越して、若者の就職が困難になり、その需要に応じて、対策のノウハウ本や情報はどんどん増えていったようにも思う。
しかしどのような場面でも、結局は自分の言葉で自分のことや他人のこと、社会のことを語ることができなければ、成功からは遠い気がする。
自分を見つめ、自分自身と対話した深い経験が、固有の人生を作り出すのだと思う。
就職活動にはさまざまなテクニックや技術は必要かもしれないが、おそらく採用する側からすれば、そのような表面上の取り繕いを見破ることは容易なのではないだろうか。
この後に、自分が実際に採用面談などを担当する立場に立って、ノウハウ本に書かれている通りに履歴書を記入してくる新卒の学生を見て、うんざりした記憶がある。
他人に自分を知ってもらい、自分を理解してもらい、自分をPRすることは、それほど安易なことでもなければ、紋切型の言葉で表現できるものでもない。
やはり若い学生たちには、自分らしい就職活動を行って、そのプロセスで成長してほしいものだと思う。
就職が難しくても、自分を責める必要もないし、自信を失う必要もない。
ただただ、自分を深く掘りながら、他人や社会と対話して、自分の場所を決めて欲しい。
誰かにお墨付きや評価をもらわなければ自分の価値がないのだと考えるほど悲しいことはないだろう。自分が行くべき道は結局自分で決めるしかないし、それは誰のせいでもないのである。
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