グローバルな「国民」はいない

グローバルな「国民」はいない


グローバルな世界とか、グローバル人材とか、そのような言葉や概念が流行してからずいぶん時がたつ。

この流行に乗るかのように大学ではグローバル〇〇学部などというグローバルという言葉を使った名称が氾濫している。

しかし、現実の世界を冷静に見てみると、グローバルな世界など存在していない。

基本的には国籍があり、誰でもどこかの国に属しており、その国の庇護を受けたり、行政サービスを受けたりしている。グローバルというものを「世界人」や「地球人」というような抽象概念で理解して、グローバル人材などと言っているのは基本的に間違っている。

国民国家の中で、どこかの国の国籍を持って生きているのであれば、まずは自国を足場にして世界で活躍する(自国にいなくても)のは結構なことだ。

しかし、どの国にも所属しないような態度や行動、日本国家の庇護や保護を受けていながら、日本という自分の足場を軽く見て、壊そうとしたり、貶めたりしている人がいる。

それぞれの国民が自分の国に誇りと責任を持ち、その前提で他国と友好的な関係を築く。

これが必要かつ重要なことだ。

このグローバリズムという言葉は、他国の人を自国の人と同じように扱うという意味ではない。人間としての価値は等しいとしても、扱いは区別しなければならないのである。

それは日本国の政府は、まずは日本国の国民に責任を持ち、その幸せのための政治を最優先させなければならない。

外国籍の人を救っていくのは、余徳として行うべきものであり、決して日本国家の責任ではない(緊急時は別である)。そのけじめを、厳しくつけることができないことが、日本の国の没落を生み出している。

国家が溶けているのだ。そしてその隙間を利用して悪意ある外国籍の人々が日本を利用しにやってくる。厳しく対応し、けじめをつけることが、本当はその外国人を救うことになるのにも関わらず、中途半端な救いの手を差し伸べる。それを常態化させることで、日本国の枠組みがなくなっていく。

国家を支える義務があるのは基本的にその国の国民である。

しかたがってそのように溶解している国家を支えているのもその国の国民である。

国民国家の理念に立ち返らなければ、日本は国を失うことになる。

グローバルな日本などない。日本は日本なのである。

「国民国家」の概念をしっかりと持ち、それを基礎として世界の在り方や国家の在り方を考えることのできる国民の養成が必要なのだ。

グローバル人材などと言うまやかしではなく、日本人として世界で貢献できる人間を、いかに養成していくのか。それが求められている。

日本人は日本人として世界で活躍し、世界に貢献し、世界の発展に寄与すればよい。

グローバルな人材などになる必要はないのである。世界で活躍できる、世界に貢献できる日本人を目指して、今日も足元から努力しよう。

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投稿者:

山道 清和

日本の未来への発展と繁栄のために、日本の学生には自分から学び、考え、自分の意見を持つことのできる人材になって欲しいと心から願っています。就職や公務員試験に関する相談も受け付けています。遠慮なくどうぞ。

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