また3畳一間に引っ越して、大学時代と同じレベルに
間奏曲―フリーターの時代―その16
フリーターの時代には、忙しく仕事をしていたが、まさにワーキングプアであり、経済的には貧しかった。
住んでいた部屋が、取り壊されることになり、引っ越しを余儀なくされたのだが、住む場所にあまりお金をかけたくなかったので、狭い部屋でもいいから、安い部屋を探した。しかも引っ越し費用もかけたくなかったので、その時住んでいた高円寺から近い場所が理想的だった。
探せばあるもので、中野区の大和町だったか、高円寺の駅から歩いて行ける場所に新しい部屋を見つけた。信じられない話だが、大学時代と同じ3畳一間の部屋が見つかったのだ。家賃は1万2千円。東京では格安である。
水道や流しは一応ついていたが、お風呂などはない。それは当然で、この部屋、実はセカンドルーム用の部屋だったのだ。例えば、自分の部屋がない人のセカンドルームとして勉強部屋などにどうぞ、という部屋だった(それは後で知ったのだが)。
私はそこを生活の本拠地にしたのである。
この引っ越しの時に、4畳半の部屋に山積みになっていた本の多くを古本屋に売った。
高円寺には当時、今よりももっと多くの古本屋があって、そこに買い取りに来てもらった。全部で30万円ほどになった(大金)。買い取りに来た人が「研究でもやっているのですか、よく床が抜けなかったですね」といって褒めて?くれた。
私はそこからアルバイトに通って、フリーター時代の生活をした(フリーターを脱出するまでそこでの生活が続いた)。しかし、たった3畳の部屋でも、私にとってはお城だったのだ。
その部屋は一階に大家さんのおばあちゃんが住んでいて、本当に親切なおばあちゃんだった。私がいないときに、勝手に私の部屋の鍵をあけて、ごみを捨ててくれた(ちょっとありえないようなプライバシーの侵害だが)。
普通は許されないような話だが、当時は何とも思わなかった。捨てきれずに山積みになっていたゴミを、おばあちゃんが捨ててくれたのだが、最初は泥棒が入ったのかと思っていたほどだ(どうせ盗むものは本以外には何もなかったから、どうでもよかったし、カギをかける必要さえあったのかわからないほどだったが)。
おばあちゃんに「泥棒が入ったかもしれません」と言うと、「ああ、それ私だわ」なんて普通に言ってたのが懐かしい。
こうしてまたまた狭い部屋に本を山積みにして生活する日々が始まったのだ。
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