ただ横にいるだけの存在として

ただ横にいるだけの存在として


間奏曲―フリーターの時代―その5

福祉バスには、またこのような子供もいた。年齢は当時の私よりも少し若かっただろうか。おそらく10代だった。小柄な女の子。彼女もまた車いすに乗っていつもバスに乗ってきた。声も出せないし、表情もなく、本当にどう接していいかわからない子だった。

その子は、窓から差し込んでくる光に反応して、突然に痙攣を起こす。バスに乗っているときに少し窓を開けて、カーテンが揺れて日の光が差し込むと、体が勝手に反応して、数分間は痙攣が発生してしまうのだ。こうなってしまうと、もう何もなすすべがなく、それが自然に収まるまで、待つしかなかったのである。

痙攣が起きると、運転手さんに報告しバスを停車させて、刺激を与えないように見守るしかなく、この時は本当に体中から汗が噴き出すくらいに、私も恐怖を感じた。人間の体が、コントロールの効かない状態になることの恐怖だ。

このようなことが、何回かに一度バスに乗っているときに発生し、彼女の意思とは関係なく、勝手に起こる身体の反応に苦しんでいる彼女を見ていると、無力感と早く時間が過ぎて収まってくれることを祈るしかなく、何とも言えない気持ちになったことを今でもよく憶えている。

お母さんの話では、生まれてから何年かは全く普通の子供だったようだが、何が起きたのか、障害が彼女に襲い掛かったわけである。

詳しい事情は分からなかったけれども、人間にはいつ何が起こるのかわからないものであり、健康で普通にいられることの幸せと奇跡を、この時ほど感じたことはなかった。

私たちが普通に生活しているときにも、毎日のように、このような身体の障害や不具合に苦しんでいる人がいることが、理不尽でもあり、それに対して人間がいかに無力か、ということも痛感させられた。

私は、彼女がバスに乗っている間は、普通でいられるように痙攣が起きる条件を極力排除するように努めていた。

何をどう思っているのか、何を言いたいのか、どういう思いで毎日の生活を送っているのか、私は彼女を全く理解などできなかったし、共有できるものさえ何もなかった。

バスの中で、過ごす数十分の時間だけが、彼女の隣に、ともにいてあげられる時間に過ぎなかった。

ただ、横にいてあげられるだけの存在として。

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投稿者:

山道 清和

日本の未来への発展と繁栄のために、日本の学生には自分から学び、考え、自分の意見を持つことのできる人材になって欲しいと心から願っています。就職や公務員試験に関する相談も受け付けています。遠慮なくどうぞ。

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