「旅人」 湯川秀樹
日本で初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の自伝的回想録である。この本は、学生時代に一度読んだ記憶があったが、再度購入して読んでみた。この本だけではないが、人間の才能や能力は、どこに眠っているかもしれず、またそれがどこで、いつ開花するかもわからないものだと思う。
湯川秀樹は「中間子」の理論で、ノーベル賞を取ったが、その着想を得て、理論化するくらいまでの時期の回想録になっている。読後には、続きを読みたいという気持ちが出てくるが、その続編は書かれていない。
幼いころや物理学に目覚めるまえには、文学や数学などでの興味や能力を見せていたようであるが、理論物理に進んでからは様々な試行錯誤を経て、中間子の理論を完成させている。幼少期や学生時代の初期に、それほど優れた能力を発揮したようにも見えない著者がやがてノーベル賞を受賞し、世界的な理論物理学の研究の先端を走ることになるのだから、読んでいて不思議な感覚を覚える。
しかし、本当はこのような研究に欠かせない思考する時間や、黙々と論文を読み込む時間は、当然ながら回想記としては表現されにくい部分であるし、この本に書かれていない時間こそが研究のためには必要なのだ。派手な行動は、むしろ研究や科学的発見の妨げになるだろう。
おそらくは、ノーベル賞を取ってからの湯川氏は、研究以外のことが忙しくなってしまい、研究に没頭できる時間を失ったのではないか。この本の終わりに「これから先のことは、今私は書く気がない。いちずに勉強していた時代の私が、無性になつかしいからである。そして、これから先を書けば書くほど、勉強以外のことに時間を取られていく自分が、悲しくなってきそうだからである」と述べている。
有名になるということのある種の弊害が決してなかったとは言えないだろう。
湯川秀樹のような著名な人に限らず、日本の研究者は、研究に没頭できないで、他の様々な仕事に忙殺されているのではないかと思う。また研究費などの経済的な部分も不安定で、思う存分に研究だけ、勉強だけに集中できる環境が十分ではないのではないだろうか。湯川氏の学生時代には、大学に残って好きな勉強を好きなだけしていた学生が無数にいたことが書かれているが、このような環境や風土が優れた学者を生み出すのだと思うのだ。
その意味では学問適性のある人に、様々な実務や金儲けをやらせてはいけないのであって、それを支える経済的な基盤や人的支援がもっと必要なのではないだろうか。大学の研究費が減らされたり、優秀な若い研究者が、食べていくために研究者の道をあきらめたりしなければならない国は、やはり優れた学者や思想家は出てこないものだと思う。
かつての日本は、まだそのような余裕や、学者や研究者を大切にする環境が存在したのだと思うが、現代はどうだろうか。やはりその点において日本は非常に貧しい国になったのではないだろうか。
湯川氏は、周囲とのコミュニケーションが苦手で、研究室でも「孤独な散歩者」だった時期があると述べている。自分は他人を幸せにできないとか、将来もずっと孤独なのだとか、普通の自信のない若者が考えるような心境になっていたことなどもあり、そのような心境を潜り抜けている。
どんな偉大な業績を残した人でも、一人の人間であることには変わりなく、そこから誰もが出発するのである。湯川秀樹のもっていたある種の厭世観や遁世間はじつは偉大な学者にとっては必須のものなのかもしれない。特に理論や思想を紡ぎ出す作業にとっては欠かすことのできない世界観のようにも思える。
無口で、話すことが苦手だった湯川秀樹の内的な世界の充実は、世界の科学者たちを十分に凌駕するものであった。日本にはこのような無口で、話すことが苦手ではあるが、内面世界の充実した才能ある若者は無数にいるだろう。このような人が、社会的な関係などで自信を失うことなく、自分の持っている才能を存分に発揮できる日本であって欲しいと思う。また教育の在り方も、教育者もそのようなものを十分にエデュケート(引き出す)できるものでなければならない。
しかし、今の日本はそのような自由や寛容さや本当の意味でのゆとりを、忘れ去っているようにも思う。そして私たちもまた、一人で考え、一人で悩むことも必要なのである。
私が大学院で研究していたころに、科学的発見はいかにしてなされるのか、という問題を議論していたことがあった。マイケル・ポラニーは「個人的知識」という著書で、これが個人から生み出されるものであることを主張したが、科学的発見は個人の研究対象に対する個人的な潜入(入りこむこと)があって初めて可能になるのだということであり、私の指導教授はこれを「人格的知識」と訳すべきであると述べていた。1人の人間が自分の人格と人生を研究対象に注ぎ込んでこそ、実は普遍的で個人を超えた発見や創造がなされるということだ。今の日本にはこのような場や環境が乏しいように思える。
孤独を肯定し、自由を有し、自分の人格をかけて勉強する。個人の人生への没入から生み出されたものがやがて多くの人に共有されて、世界観を獲得する。こうして人類の進歩は可能になるのだ。独創とはたった一人の個人から生み出されて、世界を獲得するものだ。
そしてこれは、実は誰にでも可能なものなのだと思う。科学的な発見に限らず、芸術や技術などの面を含めると、全ての人が何らかの才能をもっている。しかし、多くの人はそれほどに自分の興味に思い入れたり、それに集中できたり、没入できないだけなのだ。全世界の人々にこのような時間や機会が準備されたら、世界は色とりどりの花の咲き誇る素晴らしい調和の世界となることだろう。
これは私が別のところで述べた「ジグソーパズルの世界観」と一致するものである。ただ、このような世界にするためには、人間の意識がもっと大きく成長、向上しなければならないし、人類に無限に近い進化の時間が必要なのかもしれない。
(神保町の古本屋にて100円で購入)
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