「官愚の国」 高橋 洋一
この本は簡単に言えば、日本の官僚は優秀だなんて言われているけど、実は愚かでバカなんだよ、という本である。この本を読めば、確かにそうだとうなずける内容だ。私の教え子には国家公務員や地方公務員、警察官や消防官になった若者が数多くいる。ただ、いわゆる官僚(国家総合職)で採用された学生ではなく、現場や国家一般職として地方の部局で働いている教え子の方が多い。彼らは大きく言えばその愚かな官僚の下で働いているわけだ。
国家総合職で合格した学生は、霞が関の高級官僚なんて言われているが、そういわれているほど高級でもないし、賢くもないのは事実である。それは東大を出たから本当に賢く優秀なのかと言われるとそうではない、というのと同じである。そして本当に優秀だったとしても、組織の中に入り、そこでの風土や仕事の仕方に染まってしまい、当初の志を忘れ去っていくのだろう。
日本人はやれ東大だとか、霞が関の中央省庁で勤めている人間は優秀ですごいという思い込みがあるようで、省庁の役人が間違ったことをやるわけがないなどと言うありえない信仰を持っていたりする。しかし、実情はひどいもので、今や無能化している役人が大半ではないかと思う。
それは中央省庁の役人がやっていること、その事実や結果を見れば明らかである。だから我々はもっとこの役人のやることに厳しい目を向けなければならない。霞が関で偉そうにしている官僚こそが日本をダメにしている急先鋒だからだ。
まず、この本には公務員試験の話が出てくる。公務員試験の問題は、基本的に範囲が決められた教科書から出題される。特定の教科書があるわけではないが、通常の基本書から外れたことは出題されない。また、時間が決められた試験だから、難しい問題は後回しにして自分ができる問題を優先させ、必要な点数を取ればOK、という世界だ。基本的には日本の高校や大学の受援勉強が得意だった人間が合格しやすいシステムであることは間違いない。
そこから導き出されること。前例のない問題は解けない。難しい問題は先送り。できる問題をしっかり解いて失点を抑え、合格ラインに到達させる。これが仕事の仕方にも見事に反映されているのが官僚の世界だ。その意味で、この著者は自分ももと官僚でありながら、霞が関の官僚は無能である、と断言している。
また、他にも問題がある。基本的に霞が関の官僚は東大法学部に代表されるように、文系の学生が多い。数理や統計に弱く、その方面から物事を考えることができない。数理統計が使えないということは、政策の検証が数値ベースではできないことを意味しているし、今回のコロナ騒動で、そのことは明らかになったのではないだろうか。
様々に行われたコロナ対策が本当に効果があったのか、またワクチンはどうなのか。これについて全くと言っていいほどに検証がなされていないことを国民はもっと不思議に思うべきである。コロナについては国費が100兆円近く使われたはずである。しかし、これに対してきちんとした効果や結果の検証がなされなければ、また同じようなことが起きても、効果の検証されない無意味な制限を国民は負わされることになる。数値目標の設定やデータによる検証ができないことは事実として今回のコロナの対処だけ見てもよくわかるだろう。
もちろん結果の検証がされないのだから、誰も責任をとらない。これは政治家もそうだし、当然に中央省庁もそうなのである。これを無能だと言わずして、なんというべきなのだろうか。これだけ税金が投入されて、効果も成果もわからなかったのである。国民はもっとこのような事実に関心を持つべきだろう。
この本が主張するのは、ただ官僚が無能で無責任だというだけではない。もっと大きな問題が存在するのである。それは日本が戦前から事実上官僚が支配する国であり、政治家すらも官僚に屈するしかないという現実である。
例えば、通常は政治と行政の関係でいえば、政治的な決定は政治家が行い、法律を作る。行政はそれに従って政策を実行する(法律による行政)。つまり政治主導になるはずなのだが、実際にはそうではないということだ。国民から選ばれた政治家が、公務員試験に受かっただけの、実は無能な受験秀才に屈し、支配されているという恐るべき現実があるのだ。
なぜこのようになるのか。それには様々な理由があるが、簡単には次のようにも言えるだろう。政治家や議員は選挙や政治家になるための活動に忙しく(あるいはそれにしか興味がなく)、実際の政策に関する勉強をしていない、また官僚の力がないと必要な情報ももらえない。そして政治家は次々に入れ替わり、実務に精通していない。政策の細かい内容もよくわかっていない。官僚は何年も行政の実務経験や現場を通じた多くの情報や知識を蓄えている。だから実際に法律をつくろうとしても、国会議員は全く役立たずで、法律のほとんどが官僚によってつくられているわけだ(国会に提出される法案の多くは内閣提出つまり官僚が作ったもの。議員が作った法案は成立する率も低く、成立する法案で言えば、9割以上は内閣提出法である)。
法律に関しては、官僚の方が立法能力が高く、政治家はほとんど何もできないのである。官僚も政治家の無能を知っているから、政治家の言うことなんて聞かない。自分たちの都合のいいような法律を作ることもできるわけである。
この本には「世にも恐ろしい官僚の作文術」という章がある。法律もそうだが、あらゆる行政文書には、官僚のレトリックが使われていて、その責任逃れと、都合のいい解釈が可能な表現が使われる。この本には実例まで挙げてあるから、読んでみると唖然とするに違いない。ほんの言葉尻を変えることで、解釈を変えられるように細工がしてあるわけであり、官僚とはこのようなことに血道を上げるせせこましい人間の集まりなのだ。数値での検証などができない代わりに、作文のレトリックを駆使する能力には長けているということだ。
また、この本は旧大蔵省(現財務省)に対しても厳しい批判を投げかける。財務省は、「われら富士山他は並びの山」などと言って、自分たち以外の省庁は低いその他の山にすぎず、自分たちこそ国家の中心だという歪んだエリート意識をもっている。これは今でも続いていて、間違いなく財務官僚は自分たちが国家を動かすスパーエリートであり、他の省庁は予算をもらいにぺこぺこ頭を下げる並びの山に過ぎないと思っていることだろう。そしてこの権益を決して失いたくないと考え、様々な画策していることだろう。
だからこそ、増税増税なのである。減税などしてバカな国民にお金を無駄に使わせるくらいなら、国がたくさん召し上げて、それを賢い官僚の方針に従って配分してあげた方が国のためになると考えているに違いない。そしてそのような権限の下に自分たちの権益が増えて、天下り先も確保できるというメリットだらけなのだ。国民を豊かにし、国を本当に成長させようなどと言う気持ちはさらさらないことがわかる。現に、これまでの財政政策はことごとく失敗し、国民はどんどん貧困化、先進国でも経済成長していないのは日本だけという不名誉な結果をたたき出している。これが無能な官僚たちが主導権を握った結果なのである。
ただ、これについては、国民にも責任がある。例えば財務省などがマスコミや政治家を使って流す嘘。日本が財政破綻するなどという大嘘を、調べもせずに簡単に信じて財務省の増税路線に従ってしまう。バカな政治家選ぶから、その政治家が官僚の言いなりになり、国民のための政治は実現しない。タレント議員や知名度が高いだけの中身のない議員が、官僚と渡り合えるわけがないことくらいわかるはずだ。しかし、それでも中身のないスローガン型の政治家を選び、それを支持し続けている国民がいる。
すでに亡くなった安倍元首相が、官僚が言うことを聞くのは政治家が多くの国民の支持を集め選挙で圧勝したときだった、という趣旨のことを述べている。つまり政治家が強い民主的な基盤があるときは、政治家が優勢になりうるということだ。財務官僚をはじめとする多くの官僚は様々な画策をして政治家を陥れたり、意地悪をして協力をしなかったり、ということを平気でやってのける。
彼らにとってみれば、底の浅い政治家などは、バカにしか見えていない。もちろんそんなことをしている官僚もバカなのだから、バカがバカをバカにしているレベルなのだが、プライドの高い官僚はそんなことにも気づかない。人間にとっての優秀さの定義が、学校偏差値でとどまっている情けない大人の姿がここにある。
しかし、日本がこのような無能な官僚や政治家に牛耳られているのは、国民が愚かだからである。国民も政治家や官僚が言うことを簡単に信じて、あるいはマスコミの情報を鵜呑みにして、自分で調べたり考えたりしない。全てはここに原因がある。これを覆すためには、国民が賢くなり、政治の主になり、官僚を国民の利益のために公僕として使わなければならない。また、自分たち自身でそれができなくても、それができる政治家を選び、政治の世界に送り出さなければならない。
全ては国民の目覚めにかかっている。民主制の世界では、それ以外に道はないのだ。官僚や政治家を批判してもいいが、最後の矢印は結局自分たち、国民に向けられるということを忘れてはならない。
この本には官僚や政治家に関わる様々な論点がまとめられている。多くの政治家を志す人々、公務員を希望する若者、そして何よりも有権者である国民一人一人に、自分たちの国の中枢の実態を知って欲しいものである。そして数理能力が弱いわりにはプライドが高く、同じ省庁の同族意識で身内に甘い割には政治家や国民には厳しい、国民を舐めきっている官僚の実態がわかることだろう。
(吉祥寺の古本屋で購入 100円)
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