専門学校と大学での学び(誰もが入れる一流大学)
学生時代をいかに生きるか ―専門学校教師編―その19
前回の、専門学校と大学について考えたこと、の続きになる話をしておきたい。
学生は専門学校であれ、大学であれ自分の卒業後の進路や出口に必要な学校を選び、そこで自分の責任で勉強すべきだという話をした。
実際問題、専門学校も大学も、その学校によって様々だし、そこで教えている先生もピンからキリまでというのが正直なところである。よき教師との出会いというのは、かなり偶然に支配されるところがあり、入学前にはよくわからない。
大学の先生は確かにその分野では専門家かもしれないが、他の社会的なインテリジェンスが低く、全く人間として尊敬できない人もいるし、その見識も歪んで偏った人も多い。
マスコミによく出てくる学者なども、かなりおかしいのが多いことも、まともな人なら見抜けるはずだ(見抜ける知性が必要だ)。
専門学校も様々な教師がいて、スキルも知識もそれほど大したこともなく勉強不足の先生もいれば、社会人として見ても知識、スキル、見識共に優れた人もいる。そう考えると学生の側が、学ぶべき先生をしっかりと選び、運悪くレベルの低い先生に当たってしまったら、適当に流しながら、自分で勉強していくことを勧めたいのである。
そこで、高校を卒業したら自分で「読書大学」に入学して、読書を主な先生として学びを続けることを提唱したい。この読書大学は生涯学習も含むので、一生卒業できないし、してはならない。
読書し、色んな人の意見や考えを学びながら、自分の思想や考え、生き方を練っていくのである。
また、現在では、動画をはじめとして様々なところで情報発信している人も多いので、そのような人で、自分がまともだと考える人、学ぶべきことがあると思える人から学んでいくといいだろう。大学でつまらない授業などを聴いている暇があったら、動画を見ている方が勉強になることはたくさんあるからだ。
もちろん、大学の授業や講座の中にはいいもの、優れたものもあるから、それをうまく選別して利用していくのである。
その意味では大学や専門学校の授業は、多くのチャンネルのなかの主要な一つにしか過ぎないということになる。そしてこれからの時代は、それでいいのである。
先生から素直に学ぶという姿勢は大切ではあるが、その先生も自分で選び、それを複線化、多角化していくということが必要である。教授だからとか、マスコミに出ているから、とかそんな理由で偉いなどと思ってはいけない。もはや大学も、研究機関や教育機関として、まともに機能しているとは言い難いところも少なくない。また、マスコミにもてはやされる大学教授などは特に偏った考えを持っていて(なにせマスコミ自体が偏向しており、それに都合のいい人選がすでになされているから)、専門家としても眉唾な先生はたくさんいる。十分に注意しよう。
だから、いいところだけを自分でつかんで利用する。自分の成長にフォーカスする。それでいいのである。
求められる姿勢は、あらゆる情報を簡単に信じない、疑わない、自分で調べて考える。こうして自分なりのインテリジェンスを積み上げていくことだ。
そこでどうしても必要となるのが「読書」であり、動画なども含めた色んな人の考えや意見を聞く場である。また議論や討論ができる場があるとさらにいいだろう。
積極的にそのような場所に身を置いて、自分で考え、知性を磨く。これは専門学校生にも大学生にも、共に必要なことであり、当然に社会人になっても必須の姿勢なのである。
「読書」という大学は、古今東西、様々な時代に生きた人からのメッセージに満ちている。そのような安価で優秀な一流大学は他にはない。これを利用しない手はないだろう。
読書の価値を知っている人からみると、専門学校や大学の授業料が不当に高いと感じられるかもしれない。しかし、だからこそ、その場やその時間を最大限に活かし、専門学校や大学での価値は自分で作るのだと、心に決めて欲しい。
もはや、専門学校や大学は義務教育でも何でもない。自分で選んだ学校なのだから、自分の責任で自分の行動で価値を付けることが必要だ。
その意味で、学校や先生に不満を言っている暇があったら、読書大学での学びに時間を使って欲しいのである。何度も言うが、これほど安くて優れた先生がいる一流大学は、他には存在しない。
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