透明な心と透徹の知性
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その15
大学に入って、かなりの自由な時間ができるようになると、暇をもてあます学生が出てくる。
私が学生だった頃は、マージャンやパチンコ、コンパなどで時間をつぶす学生がたくさんいた(今の大学生はきっともっと忙しいからそんな暇はないというかもしれない)。
当時でも本をたくさん読む学生というのはそんなに多くはなかったのだが、私にとっては、このような時期に数多くの本を、分野を問わずに読んだことは、自分の価値観を大きく変えた。
高校までの生活の中で当然だと思ってきたことが、そうではなかったり、マスコミで流されている情報が一面的なものでしかなかったり、常識が覆ったり。
そんなことを繰り返しているうちに、この世の中には、数多くの偏見と決め付け、レッテル貼りが存在していることを身にしみて感じた。
私はその時に、「何でも自分で確かめないうちは決して安易に他人の否定はしない」ということを心に誓った。
自分の狭い見識による偏見や決め付け、レッテル貼りによって、どれだけの人を意識の中から抹殺してきたのか、ということについて心底恐怖を感じたからだ。
だから出会う人出会う人一人ひとりを大切にして、彼らの話をよく聞いた。そして必要があれば様々な場所に出かけていった。
大学時代は、様々な人、様々な団体に何の偏見も持たずに飛び込んで、話を聞くようにしていた。
人間がやっていることには全て根拠や理由がある。
その根拠や理由を理解することは本当に大切だ。例えその意見や趣旨に賛同はできなくても、その根拠を知り、理解すること。
それによって自分の見識が広く大きくなり、理解できる範囲が広がる。
偏見や決め付けや、色眼鏡を排して、あるがままに相手を見ること。知ること。理解すること。
このような寛容な姿勢を持ちつつ、自分としては確固とした自分の意見を持つこと。
自分として自信と信念をもって行動すること。
そのような透明な心になっていくために、たくさんの勉強が必要なのだと気づいたのだ。
透明な心で世界を見ることが、あるがままに世界を見ること。もちろんそれは完全には無理ではあるが、自分なりにできることはあるものだ。
マスコミの情報やうわさ話などに振り回されているようでは、本当の知性を手に入れることはできない。
知性は透明な心と共にあるものなのだ。そして知識を増やし、情報を手に入れて、虚心坦懐に自分で考えることで、知力は浄化されていくのである。
大学時代にはその片鱗をつかみたいものである。
Share this content:
コメントを残す