僕が僕であるためにー多様性重視の生き方ー
世間では、「多様性が大切だ」「多様性が大切だ」と、いかにもそれが全ての正義であるかのように騒ぎ立てる人がいる。
多様性が大切だから、日本も外国に見習って、もっと多様でなければならない。色々なものを多様に受け入れなければならないのだ、と。
人間個人の問題として考えてみる時、この多様性を重視するということが、本当は自分が自分らしくあることなのだと気づく人はどれくらいいるのだろうか。
自分が多様な経験を積み、多様な生き方や考え方、価値観を知ることは非常に重要だ。
しかし、いざそれを自分の生き方として考える時、そして自分が何かの行動を取るとき、そこには必ず選択し、判断し、意思し、行動する主体としての自分がいる。
世界には様々な人がいるが、その多様性を守るためには、あなたはあなたらしくなければならない。
あなたが多様な他人の価値観や生き方に振り回されて生きる時、それは「自分」という、世界の多様性を構成していた重要な一要素が消してしまうことを意味する。
世界を構成する多様なものの一部であった、あなたという多様性が消えるのである。
国という単位でを考えてみても、確かに世界の様々な国々から学び、それを理解することは大切なことだ。しかし、それは日本が日本らしさを失い、外国のようになってしまうことであってはならない。
そうなることで、日本という世界の多様性を構成していた大切な要素が消えるのだ。
多様性を主張する人は、このような根本的なことを考えることなく、外国に合わせ、日本らしさを捨てることを多様性だと考えているようである。
それは「いい人」であろうとして、周りの人に合わせ、振り回されて、自分の人生を生きていない人間に似ている。
だから、多様性に振り回されてはいけない。日本が日本であるために、僕が僕であるために、何が必要なのかを考える。
また、自分らしさとは、日本らしさとは何かを、まさに多様性の中で考えて、それを固めていくのだ。
その核があってこそ、人間は、自分の責任で判断し、意思し、行動していける人間になれる。
その核があってこそ、国は、自国の責任で判断し、意思し、行動していける国になる。
それこそが、成熟した人間であり、成熟した国家である。
実は非常に浅く、軽薄な、「多様性」という言葉に、振り回されることなく、自分を探求しよう。
それが多様性を重視した生き方であり、誰もが幸せになっていける道である。
多様性は自分らしさを生み出し、発見するための材料に過ぎない。
またそれは制度などによって押し付けられるものでもない。
世界創世の最初から神は、この世界を多様なものとして作られているのである。それをそのまま受け入れつつ、自分という多様性を大切にすることが必要なのである。
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