「愚民文明の暴走」呉智英 適菜収
この二人の対談の内容は、題名からわかるように、現代の愚民(勉強しない教養なき人々)に支配された文明社会への批判と検討というところだろうか。
呉智英氏については私が大学院生の時に、彼が開催していた「論語塾」に通ったことがあったが、この人の教養たるや畏敬の念を禁じ得ない。当時はまだ呉先生も若かったが、すでに大家のような雰囲気で語っておられた姿が、目に焼き付いている。また昨今は、ダイレクト出版から講座が販売されていてそれも購入して学んだ。
多くの著書があるが、私としては、言語に関するこだわりは、読んでいて勉強になるものが多かった。エッセイ集としては「大衆食堂の人々」などが面白い。知識人としての自覚と実力を感じる人である。
民主主義だとか人権だとか、近代主義が当然に価値あるものだという概念を無条件に価値があるという思い込みの中にある人は、このような対談を読んでも、十分にピンと来ないかもしれない。
しかし、私たちが自明の理のように価値があると思っている概念などは、都合のいいように作られた虚構に過ぎない。そのことを疑ってみる人でなければ教養人とは呼べないし、この社会の本当のあるべき姿を描くことは難しいのである。
適菜収氏は、ニーチェやゲーテをベースにして今の日本のいわゆるB層批判が有名であるが、その指摘は的を射ていると思う。劣化した日本の根本にはこの問題がある。このような人たちが大学の先生としていてくれたらいいのだが、実際には正規の教授などになることはできないだろう(本人も希望しないだろうけれど)。
ただ、最近は彼が書いた「コロナと無責任な人たち」という本を読んだが、これについては、ちょっと日本の専門家たちを信用しすぎているのではないかと思った。
確かに素人にはわからないこともあるが、すでに専門家が金や利権で動いていて、都合の良いポジショントークをしていることは事実だ。だから私のような素人が専門家を批判することは十分に可能だし、またすべきなのだとも思う。無教養な専門家というのはたくさんいるのだから。また、専門バカという言葉の通り、それだけに凝り固まっていると、見えないものがたくさんあることも事実だろう。
おそらくは大学生でもこの二人の本を読んだことがある人はかなり少ないのではないかと思うが、このような論客の意思をくみ取れる若者がもっと出てくると、日本の社会の在り方も本当の意味でもっと高貴なものになるのではないか。
「知性」の価値が低くなってしまっているこの反知性主義の世の中で、貴重な知の源泉であるこの二人のような論客や、彼らが勧める古典などに目を向ける若者が、もっと出てきて欲しいものだ。
この二人の対談本が公立図書館にあったことにはやや感動した。
(図書館で借りたので、0円)
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