知性の本質
学生時代に高い知性を身につけるための基本的な器を作ることは非常に重要である。
「知る」ということは、人間にとって人生を大きく左右するだけの力を持っている。
フランシス・ベーコンは「知は力なり」という言葉を残しているが、まさしくそうなのである。
知るということの対象は「自分」であり「他者」であり、「世界(社会)」である。
だからこそ、学生時代の学問や読書、友人や先生との関わりなどは非常に価値のあるものなのである。「世界」を知るにはまだほど遠いかもしれないが、その気で勉強すれば、かなりの情報を得ることもできるはずだ。
また、学生のうちに外国を見ることはそれがたとえ観光であったとしても、日本との比較ができるようになるという意味で有意義だ。
知性が深くなってくるとそれを「理解」と呼ぶことができる。
「理解」という言葉は限りなく「愛」という言葉に近い(というか私にとって、これは同じものである)。
この世の中には「理解」が不足することで様々な不幸が生まれてくる。
「理解」しないばかりに対立や争いが起きる。
「理解」が不足することで誤解を生み、不幸が蔓延する。
だからこそ、学生時代には知性を磨くことだ。それは知識を増やすということではない。情報や知識の重要性は言うまでもないが、それを超えたものを求めなければならない。
たくさんの本を読み、情報を集める。身近な人々との対話を重視し、多くの人に会う。決して自分の殻に籠もってはならない。
そして、考えること。思考力は人生を変える大きな力であり、他人や世界を変える大きな力なのだ。
地球の裏側で生活している人々を理解することは難しいだろうが、身近な人を深く理解することは世界の人々を理解する道に通じる。
「理解」という言葉が本当に「理解」できたら、「知と愛」が同じものであることがわかる。
宗教の教えのように、「愛とは与えること」などという上から目線の傲慢な態度をとるまでもなく、自然体で人を愛することができるようになる(そして、それこそが本当の意味で相手に与えることであり、同時に自分が得られる関係でもあることがわかるだろう)。
多くの若者が心を悩ませ振り回される「恋愛」の情熱も、相手に対する「理解」に向けられてこそ初めて次のステップを踏むことができるのだ。
恋愛の情熱や相手への強い関心は、理解に向かうための強い推進力となる。相手を好きにならなければ、理解しようなどとは思わないかもしれない。だから人間は恋愛を通じて、それが理解へと向かうステップの初歩段階を学んでいるのである。
学生時代には、そのような知性の成長段階とその力に気づいて欲しいものである。
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