無関心の果てに
無関心というものほど、恐ろしものはない。
よくある言葉に「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」である。というものがある。
それは全くその通りだ。
無関心の恐ろしさは、それによって、その関心を持たない対象を失うことにある。関心のないものを失ったからとて、それが何が悪いのか、それでいいではないか、という意見もあるだろう。
しかし、日本の国民が日本の国の在り方や行く末に関心を持たなければ、やがては国を失うことになる。
あなたが周囲の身近な人間に関心を持たなければ、その相手を失うことになる。そして失うことによってはじめて、その相手が自分にとってはかけがえのないものだったことに気づいたりする。
もちろん、その時はすでに遅いわけである。
人間は特に、与えられて当たり前だと思っているものに対して、無関心になりがちだ。
無関心は気づきの機会を失わせる。
政治に関心がなければ、それがどれほどおかしな方向に向かっていても気づかない。
家族に関心がなければ、家族がどれほど悩んでいても気づかない。
関心がなければ、気づきの機会を失い、理解の機会を失う。
それはやがてあなたに大きなダメージをもたらすことになるだろう。
まずは自分が本来関心を持つべき対象に対して、無関心になってはいないか、時々チェックし、確認しなければならない。
無関心の果てに何が待っているのか、それを真剣に考えなければならない。
あなたの関心が対象が広がることは、自分の器の広がりであり、自分の愛の広がりであるということだ。
様々なものに関心を持ち、学び続け、知り続けることはだから、世界に対する愛である。
それを忘れないようにして、まずは身近なところから、自分の関心を広げていくといいだろう。
その第一歩は、自分自身に、真摯な関心を持つことである。
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