大衆民主主義時代の政治家
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その57
自民党の学生部にいたときに、都議会議員に頼まれて、支持者回りをしたことがあった。
よくあるあいさつ回りをかねて、議員のポスターを張ってもらうようにお願いするというやつである。
数人でポスターや地図などを持って、一件一件、戸別訪問をしていくのである。
ある支持者のお宅をお伺いした時に、そこのご主人からなぜか怒鳴りつけられ、しこたま怒られたことがあった。もちろん私たちが悪いことをしたわけではない。
そこのご主人はその都議会議員に対する溜り溜まった怒りを、たまたま訪ねてきた私たちにぶつけたのである。
どうも話を聞いていると、その議員が支持者と約束したことを守らないだとか、ちっともあいさつに来ないだとか、とにかく色々な点で、その支持者に恥をかかせたり、気に入らない言動があったりしたらしいことが分かった。
私たちは、訪問の対象者が支持者だということを聞いていたので、当然友好的だと思って、無防備に訪ねていったわけで、突然怒り出し、怒鳴りだしたご主人を見て、ただうろたえるのみであった。
なんだかよくわからないが、ひたすら平身低頭、謝りに謝って、その場を後にした。
選挙で票をもらうために、このような場面はひたすら謝るしかないのだろうが、果たしてこの支持者の言っていたことがすべて正しいかどうかはわからない。
いろんな誤解があるのだろうし、行き違いがあってこのようになったのかもしれない。
ただ、この支持者が、決して「東京都」のことを思って、この議員が都政にとって問題があるからという理由で、叱ったり怒ったりしているのではないことだけはよくわかった。ただの私憤であることは明らかだった。一体なんのためにこの議員を支持している人なのか。
それを考えたときに、民主主義の可能性と限界を同時に感じたのである。
いろんな人の意見を聞く、いろんな人から支持を集める、いろんな人の多様な価値観を理解する。
このような観点から、一定の意見や政策に、それを具体化させ、反映させていくのはいい。
しかし、考えて見ると、支持者である一般の都民は、いつも東京都のことや都政について真剣に考えたり学んだりしている人ではない。今後の都の在り方なんて真剣に考えている有権者なんてほぼ皆無だろう。
自分の身近な職業による利害、知人や友人の人間関係によるつながりやしがらみ、そのようなものから決して自由ではないのが、一般の有権者である。
議員とはそもそも立ち位置が違うのだ。
そのような人々からの支持を集めなければ、選挙に勝てないし、議員にもなれない。
忙しい中でも、町内会の運動会に来てくれないというだけで、支持を失うかもしれない。また、葬式や結婚式に足を運ばないだけで、支持を失うかもしれない。
それが、大衆民主主義のもとに置かれた議員の宿命なのだ。
支持者周りをしているうちに、この時代に政治家として仕事をしている人の苦労や困難や、大変さが身にしみた。
ただ多数決を制度的に保障するだけなら簡単なことだが、本当の意味での理想的な民主主義の実現は極めて難しいものだと思った。
企業の経営でも、民主主義的に物事を決めようとする経営者は会社をつぶすかもしれない。
国民の声に耳を傾け、民主主義的すぎる政治家は国をつぶすかもしれない。
しかしやはり1票は国民一人一人が握っている。
その支持を得ながら、大局を見据え、国家に関わる仕事をするというのは、とても大変なことだ。
なにせ国会議員の選挙のときでさえ、国民は必ずしも、国家のことや、社会全体のことなどを考えていないし、その知識も見識もない場合が多い。
このような意味で、政治教育は国民にとっての必須科目ではないかと思ったのである。
くたくたになって支持者まわりを終えて、その議員に、支持者から怒鳴られたことを恨みがましく報告すると、その議員はこう言った。
「ああ、あそこのおやじはいつもあんな感じなんだよ。気にしない、気にしない」
さすが、大衆民主主義を生き抜く政治家である。
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