偶然という名の必然
偶然誰かに出会ったり、偶然いろいろな出来事に遭遇することはよくあることだ。
ラッキーという言葉があるように、人生にはそのような場面が無数にある。
しかし、よくよく考えてみれば、その偶然に見える場所、時、人が準備されている場所に足を運び、その時、その場所、その場面を選択したのは、結局自分自身であることに気がつく。
私たちは色々な出会いや出来事への遭遇を、偶然で片付けてしまうことも多いものだが、実は、それは決して偶然ではなく、自分で選んだ必然なのだ。
たまたま、運が悪く、たまたま運がよく、ということは確かにあるけれども、その土俵はすべて自分で選んだ結果の延長に過ぎない。
その意味では、自分の現在の在り方や境遇は、全て選択の結果であると言ってもいい。
それが心を込めた選択であったのか、なんとなくの選択であったのか、それはどうであれ、その結果起きてきた様々な結果の違いは、自分の選択の結果として受け止める以外にはない。
積極的選択、消極的選択、やむをえない選択、いろいろな選択の違いはあれど、それは自分の選択の結果として受け止めなければならない。
自分としては追い込まれてやむを得なく行った選択であると思っていても、人によってはもっと別の選択もあったのであって、決して一つではなかったはずなのだ。
その意味では、偶然に見えるすべてのことが、自分が選んだことの帰結に過ぎないのだと考えることは、自分に責任と自信の双方をもたらす。
アインシュタインは「神はサイコロをふり給わず」と述べたが、それは物理現象には偶然はありえないということだろう(この世界観はすでに覆されてしまっているが)。
それと比して、人間の自由意志は、偶然に支配されているように見えるかもしれないが、少なくとも、自分でそれを選択したという意味では、必然であって、「選択」というものの重要性は、決してないがしろにはできない。
神が作られたこの世界の中で、あなたが「選択」というものによって世界の創造に参加し、神と共同で、この世界の在り方や、自分の人生の在り方を決めているのだということに気づいて欲しいものである。
あなたは偶然や運命に支配されるような弱い存在ではなく、必然の世界と責任の世界を生きているのだということを忘れないようにしよう。
Share this content:
コメントを残す