何故、今日本なのか(2)
日本人が日本人の在り方を考えるときに、かつて日本に生きて、この歴史を作ってきた人々の在り方を振り返り、そこから再度学び直すことが必要である。
もちろん日本人と言っても、全ての人が有する資質や行動特性というものがあるわけではないが、日本の風土や歴史や教育によってつくられたものは、ある程度共通したものがあり、そこから私たちが学ぶべき何事かを抽出することは可能なはずである。
今回は、フランシスコ・ザビエルの言葉を紹介しよう。
日本の歴史の教科書には必ず登場する人物であり、日本に最初にキリスト教を伝えたとされる人物である。
ザビエルは鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えた。
私は鹿児島大学時代に鹿児島のザビエル教会を訪ねたことがある。そのザビエルがこのような言葉を残している。
「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉と思っていません」
ザビエルが日本に布教しようと決意したのは、実はそれ以前にインドで「アンジロウ」と呼ばれる薩摩武士に出会ったからだと言われる。この武士の知識欲、吸収力などに驚嘆したザビエルは、日本に期待して日本行きを決意したわけである。
西洋のキリスト教の布教は、植民地支配の道具として使われた面があり、それ自体の動機は決して肯定できないが、ザビエルは純粋な布教目的だったようだ。ただ真実はわからない。
この言葉を読んでも、日本人が最高の評価を受けていることがよくわかる。
親しみやすさと善良さ。名誉心。貧しさを恥とも思わない高貴さ。
今の日本人はどうだろうか。ザビエルがキリスト教を伝えたのが1549年。まだまだ日本は西洋からみたら未開だったのかもしれないが、精神性はそれを凌駕していたのかもしれない。
人間の価値を決めるのはこの精神性だ。
現代の日本を覆っているこの閉塞感も、社会の貧しさも、全てはこの精神性に起因している。
また、名誉というのは人間としての誇りであり、肩書とも無縁である。
しかし、今の日本はこの精神性において貧しい世界に転落しようとしている。共同性を失い、人間性を失い、金や間違った名誉を求め、刹那的で、自分のことだけが中心のこころ。
この頃と比較して、一体日本人は何を得て、何を失ったのか。
まだ近代化など程遠い時代に、なぜこれほどもまでに賞賛される存在だったのか。
キリスト教は外国を植民地支配するための手段であった、と述べたが、その西洋世界でも日本を征服することが困難だという認識があったようだ。その理由は以下のとおりである。
1 民度が高いこと
2 進取の気性があり学びに貪欲であること。
3 名誉心が強く、名誉のためには命も投げ出す気概があること(特に武士階級)
4 武士が存在していること
5 地理的な条件(海に囲まれていること)
6 上の命令はよく聞き、統率が取れていること
現代の日本は、この5の条件を除いてはそのすべてを失いかけている。兵器や技術が発展した現代では5の条件は、それほど国を守ることには有効とは言えなくなっている。6は、悪い形で残っており、今の日本ではこの「上」が全くあてにならないほどの間違った方向に進んでいるので、日本自体が、この統率の下で、進路を誤っている。
しかし、何よりも精神を骨抜きにされ、学ぶ意欲や、自尊感情という意味での名誉心も大きく毀損されていることが、最も大きな打撃であろう。
精神の支柱を持たない人間は容易にお金に転び、間違った名誉に左右され、自らの欲望に翻弄される。
そうして国の形が壊れ、西洋に限らず、他国に翻弄され続ける。
日本人は、自らの心に大きな精神的支柱を立てなければならない。そのために何が必要なのか。
これを求めて、探求の旅を続けることだ。日本人の失ったものを掘り返すことである。
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