仕事の楽しさについて
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その51
大学院での生活の初期は、明治大学のあるお茶の水駅と友人のマンションがある福生の駅との間を行き来する生活だった。
大学のそばには、アルバイトができそうな場所がたくさんあったのだが、授業の合間や、それが終わってからアルバイトをすることは非常に難しかった。
大学と友人のマンションがあまりにも遠く、通学に時間がかかりすぎたので、結局は土曜日と、日曜日の両日でアルバイトを探すことにした。
ひとつだけ、大学の近くの出版社で、授業の合間にきて仕事ができる場所を、大学院の友人が教えてくれた。出版物の校正の仕事だった。これは助かったのだが、長時間できなかったことと、時給が安かったので、あまり生活の足しにはならなかった。
何とかして土日で稼ぎたいと思っていたら、私の友人がアルバイトをすっぽかしたことがきっかけで、私が代わりに行くことになり、そこでずっと働かせてもらうことができるようになった。
それは「便利屋」の仕事で、当時はそのような業態はあまり多くはなかったが、ニーズはかなりあって、毎週のように仕事が転がり込んできた。
引っ越し、掃除、物の運搬、家具の移動、庭の手入れ、ペンキ塗り、壁紙はりなど、あらゆる仕事をやらせてもらった。
会社の名前は「丸急サービス」という名前で、立川からさらに西側のエリアが、主な仕事場になった。この会社は実は社長とその奥さんが二人だけでやっていた会社で、あとは適時アルバイトを雇って仕事をこなしていたのである(だからもうこの会社は現在は存在していないはずだ)。
私は、毎週土日にほぼ確実に仕事ができたので、非常に重宝されて、結局この会社で大学院の終了後も含めて4年ほど働くことになった。
社長のKさんは本当にいい人で、いつも優しかった。
お酒が大好きで、カラオケも好きだったので、仕事が終わるといつも私を、食事を兼ねて飲みにつれて行ってくれた(私は、お金は一度も自分で払ったことはない)。お酒が弱い私は、その場をカラオケを歌って盛り上げた。Kさんが私と一緒にいて、好きなお酒を飲んでいる時間が楽しそうだったので、それを見ている私も幸せだったのだ。
大学院での研究の時間も必要で、本を読む時間が欲しかったのだが、社長に誘われると、断ることもできずに、いつもお酒で(たいして飲んでいないのに)真っ赤な顔をして電車(中央線)に乗って帰宅した。もちろん帰りの電車の中では真っ赤な顔をしながら専門書を読んでいた。周りからはさぞ、かなり変な人だと思われていたことだろう。
仕事は非常にきつかったのだが、いつも社長はその日のうちに給料をくれたし、最も大変な引っ越しのときは1日で3万円もらったこともある。
このアルバイトのおかげで、私はなんとか本を買うことができたし、学生らしい?生活をすることができたのである。
私の窮地を救ってくれたK社長には心から感謝している。
このアルバイトは勤務態度が不真面目な私の親友はそのうち頼まれなくなり(もうやめようとしていたようだった)、社長は私にばかり頼むようになった。
この時期に肉体労働ばかりをしていたことが、私の体力を強くし、結局はこれが集中力や持続力の源になったと思う。一気に修士論文を書き上げた集中力は、この仕事のおかげだったともいえる。
そしてこの仕事のおかげで、今ではあまり使っていないが、生活上のいろいろな技術も身についた。そしてたくさんの経験もさせてもらうことができたのだ。
今ではとてもできないと思うが、若い時期には、このような生活もまた悪くはないものである。仕事が楽しいと思えたのも、この仕事をやるようになってからだった。
毎回、やるべきことが明確で基本的にはその日のうちに終わり、お客さんからはその場で感謝してもらえる。仕事のやりがいというものや、自分に向いているものを考えたときに、私の職業観の大切な基本が、ここで育まれたと思う。その意味では、自分の将来がどうであれ、色々な仕事に挑戦しておくことは、職業観を磨く上でも、非常に重要であると思うのである。
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