人と人との間で
学生時代をいかに生きるか まとめ編 その52
大学院に通っている間に、仕事をしていた「便利屋」では、いろんな人々に出会うことができた。それはそうである。毎回違う家庭や会社を訪問して、依頼された仕事を行う。一度だけの関わり合いが多いが、この仕事でどれほどの人と関わったのか、数えきれない。
大学院の研究の世界は、抽象的で、現実離れした議論も可能であったし、また時として必要でもあったが、仕事はそうはいかない。
毎回の仕事は現実とのぶつかり合いだった。
いろんな人々がいろんな環境に生きていて、そこには抽象的な机上の議論ではとてもとらえられない現実がある。
様々な人々の生活、人生、価値観、生き方、仕事、家庭環境、人間関係。時に人間のリアルな現実の姿を目にすることも多かった。
そのような現実を見たときに、学問の世界が不思議な世界にも見えたし、まただからこそ逆に必要なものにも思えた。
こんな世界だからこそ、人間がよりよく生きるために、また幸せになるために必要なものが学問(真理の探究)ではないかとも思ったのである。
私は中学生の時から「真理」は人間を幸せにするものだ、というある種の思い込みや信念、確信があった。そしてそれはすべての人がそれぞれの場所から到達可能なものだとも思っていた。
月曜日から金曜日までの本や資料に埋もれた生活と、土曜日と日曜日に経験する汗と泥にまみれたような生活と、そしてそれぞれの場所で出会う様々な人々は、私に本当に多くの学びを与えてくれた。
理想と現実。言葉で語られる世界と、言葉にできない世界。象牙の塔と庶民の生活世界。抽象と具体を結ぶもの、天と地をつなぐもの、など色んな思いが私の中を駆け巡っていた。
多くの人々の生活世界を見る限り、その随所に真理が潜んでいるのではないか、とも考えた。私の中では学問と生活は融合していた。人間の生き方や、この世界の在り方を探求するということの中に、である。
人間は他人と共通のものを見出し、共有することに幸せを感じる存在であると同時に、他人との違いを見つけ、自分の固有性みつけることにも幸せを感じる存在でもある。
人間の持つこのような矛盾した心の在り方が、実はそれを統合していくことによって、心の成長や進化を促しているのではないか、と考えたのもこの頃のことだった。
そもそもこの世界の仕組みがそのような舞台として作られているように思えたのもこの頃だ。
このような自分の人生観の根幹になるものを掴むことができたのは、他ならない、本当にたくさんの人々に出会ったからであった。
もう名前も忘れた学友や仕事の途上で出会った人々に、今は心の底からの愛着を感じる。人と人との間で、そこに幸せがあることも、自身の成長や向上があることも。
自分の周囲に意見や主義や主張が違う人がいることも、場合によっては対立することがあったとしても、またけんか別れするような関係になったとしても、それでも自分以外の他人が存在することは、なんと幸せなことなのだろう。
Share this content:
コメントを残す