とにかくこのままでは
大学に入学して4ヶ月ほどが過ぎた。
最初の頃の初々しい気持ちは薄れ、毎日がつまらないものになっていった。あれほど受験勉強から開放されたい、自由になりたいと思った高校時代がうそのように、倦怠感と無力感が私を支配した。
何の目標もなく、何の理想もない大学での生活は、緩慢な入院生活のようなものだ。読書はコツコツと続けてはいたが、自分の普段の生活や生き方にはすぐには結び付かない。
心が晴れない。
これからの目標や計画を立てなければ、このまま無駄に時間が過ぎてしまう。
私の親友のNも同じ気持ちだったようだ。
とにかくこのままではいけない。当面やるべきことを決めよう。夏休みを前に、私とNは相談した。
夏休みに実家に帰ったら自分の目標を考えてお互いに確認しよう。
今振り返って思うのは、この時期にもっと長期的な人生計画を練っていればよかった、ということだ。将来の自分の人生の道筋をきちんと思い描いていれば、と思うことがある。しかし、それができないのが若さというもので、これは当時の私にとって、ないものねだりの理想に過ぎなかった。
この時は、とりあえずこのまま大学生活を送るのはまずい、時間がもったいない、ということしか考えられず、当面やるべきことを考えようとして、視野が短期的になってしまっていた。
夏休みに入って、私は実家に帰省した。その間も語学だけはしっかりと勉強しようと思っていた。実家に帰ると、高校時代同じクラスだったメンバーも大学生として夏休みを迎えていた。その旧クラスメイトたちはアルバイト、自動車学校、パチンコ、マージャン、忙しく遊んでいた。
私は図書館に通い語学の勉強と読書に明け暮れた。自分の将来の目標を定めるためだ。受験勉強をやっていたころと同じくらいに勉強した。こうしていれば、何かが見えてくるのではないか?
母が、「受験が終わったのにまだ勉強している」、と驚き半分で私の夏休みの生活を眺めていた。
もちろん、語学を勉強したり、多少の読書をしたところで、自分の将来の目標なんてそう簡単に見つかるものではない。それでも何かを見つけるまで、何かをつかむまで、何かを感じるまで、それを続けるしかできることはないように思えた。
夏休みの期間に、高校時代のクラス会が行われたりしたが、そこでも高校時代の思い出に浸るばかりで、決して将来のヒントになるようなことはなかった。
高校時代にあれほど悩みを共有していた仲間たちも、受験が終わって解放されれば、そのような悩みもなくなり、私は自分の心の状態を共有できる仲間は、もう故郷にはいないのではないかとさえ思うようになった。
自分で考えるしかない。
自分の将来のことは自分で考える以外にそれを見出すすべはない。
故郷の大村にいる期間、私はその意味で孤独だったと思うし、そうであってよかったとも思った。独りだからこそ、見えてくる景色の中で、必死で考え続けた。
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