これが大学?
大学の入学式は大きな会場で全学部が共通して行われた。一応スーツを着て参加してはみたが、あまりの学生の数の多さに、自分の存在は小さくて、参加する必要はなかったのではないかと思ったほどだ。短い時間で大きな会場での入学式も終わった。
翌日には大学の大教室で大学の授業に関するガイダンスが行われた。大学に入学して最初に驚いたのが、新入生に対する学事部の職員の話だった。
「とにかく留年だけはしないでください」
この大学は国立大学としては普通の大学だったが、しかしその大学で、毎年留年者が続出して困っているのだという。
2割弱程度が進級できないなどといっていたような記憶がある。大学で単位をとることは決して難しくないとおもうのだが。それなのになぜ?
この疑問は大学の授業が始まって、すぐに明らかになった。大学生はとにかく勉強しない。当時の大学生は本当にそうだった。そして現実に入学時に顔を合わせたきり、その後顔を見ることもない学生は決して少なくはなかったのである(これは時代背景があってのことだから、今の大学はそうではないと思う)。どこの大学も似たり寄ったりだったのだから。
みんな目的を見失っていた。大学にはすぐに来なくなった。ただ先生もそのへんはわきまえていて、出席をきちんととって学生を教室にこさせようとする先生もいた。しかし多くの大教室で行われる授業はどんどん参加者が減っていった。
学問に最初から興味があったわけではないから、そんなに勉強しないのもわかるのだが、最低限の条件もクリアできずに留年していくのだから相当ひどいものだった。私は家庭の事情で絶対に留年はできなかったので、授業には必死で参加した。特に第二外国語(当時必修)の単位を落とす学生が多く、それが留年の大きな原因の一つであるとも言われていた。
単位を落とすことを恐れて、まじめに授業には参加していたが、正直に言って授業そのものはあまり面白くはなかった。
今でも印象に残っている先生や授業はほとんどないのである(ただこれは先生方が悪いというよりも、学生の側に興味関心が薄かったことが大きな原因だったと思う)。そもそも学問的興味から大学に来たのではないわけだから、当然の帰結であると言えただろう。そう考えると、多くの学生にとっては大学の教室で学ぶよりも好きに読書をしてアルバイトや遊びの中で様々なことを学んだほうがずっと成長できるという気もする。
これは今の時代でも大学が抱えている問題なのではないだろうか(今では国立大学もだいぶ変わってきているようだが)。
「自由」はただそれだけでは何も生み出しはしないのだ。
大学の難しさは、自由な時間が多い方が創造的な活動ができる一方、それを使いこなせなければ、堕落するか後退するしかないということである。大学生活に適度な緊張感を持たせながら生活していくことはなかなか難しい。
それが基本的には本人に任されているのだから、「自由」はそれを有する学生自身に「強さ」を要求するわけだ。この時は、とにかく留年だけは絶対にするまいと心に決めたが、まだ積極的なものは何も見つけられていなかった。つまり単位をとって留年しないために勉強していた。という意味では、大学入試の勉強の仕方と全く同じであって、何の進歩もしていなかったわけである。
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