「無能な人間」の本質について
人間は様々な仕事や役割などが与えられ、それを果たさなければならない場面が多くある。
しかし、そのような中で「無能」だという評価をされる人がいたりする。
また自分でも失敗などの経験を通じて「無能」だと思うこともあるかもしれない。
結果が出せずにそのような評価がされることがあることは事実だが、その「無能」の根本には何があるのだろうか。
やはり生まれ持っての素質や才能があり、それによって「無能な人」が存在するのだろうか。
結論からいうならば、才能や資質以前に、むしろ「無能」の本質にあるものは「無関心」ではないかと思うのである。
人間が、特に組織において行うような仕事であるならば、特別な才能が要求されることはむしろ稀である。
本当は誰もができる仕事を、役割分担して行っている、というのが通常の仕事だ。
そこで「無能」である人は、実はその仕事や、その仕事の目的などに関して「無関心」なのではないかと思うのである。
政治家が無能であるのは、国民の幸せに無関心であるからである。
事業家が無能なのは、社会に価値を生み出し、社員を幸せに、豊かにすることに無関心であるからだ。
社員が無能なのは、私生活だけには関心があるが、自分の属する会社や仕事に本当は無関心であるからだ。
このように、無能さの根本は、能力ではなく「無関心」。
心から関心を持ち、目的意識を持ち、よりよい仕事を追求していけば、そこに無能と呼ばれる存在は姿を消すだろう。
有権者が国家や社会に「無関心」であるならば、無能な有権者として、国家や社会の没落を招くだろう(衆愚政治)。
このように、無能の本質は「無関心」にある。
そして、この無関心に由来する無能さが、国家や社会を覆っている。
能力をつけたい、上げたい、と思うならば、関わる物事に「強い関心」を持つことである。
より良い仕事をしようとか、より良いものを残そうとか、そう考えて自分のやることに「心からの関心」を持つことだ。
その意味で、無能とは、「能力」のことではなく、物事に向き合う「姿勢」のことであることがわかるだろう。精神の姿勢を正すことが、無能から脱する道である。
そして、強い興味や関心を持つことそれ自体が、大きな才能であることを忘れてはならない。
Share this content:
コメントを残す