「乃木大将と日本人」 S・ウォッシュバン

「乃木大将と日本人」 S・ウォッシュバン


乃木大将と日本人

この本は、日露戦争に従軍した米国記者の書いた「NOGI」(乃木)の翻訳本である。乃木将軍と言えば、戦前までは子供たちの遊び歌にも出てくる日本人になじみの軍人だったのだが、戦後忘れ去られたようになっている。その理由はGHQが乃木将軍について書かれた書物などを焚書し、国民の目に触れないようにしたかったということもあるだろう。戦後は話題になることは少なくなった。

もちろん、実際には乃木希典について書かれた書物は多数あるのだが、この名前は教科書にもなく積極的に学ぶことをしなければその人となりを知ることはできない。乃木と言えば、乃木坂は今やアイドルの名前の方が有名になってしまっているという現状がある。ちなみに乃木坂はもともと、「幽霊坂」と呼ばれていた。乃木希典の功績により、その名前が付けられたと言ってもいいだろう。

先日も乃木坂にある「乃木神社」に参拝に行ってきた。若い参拝者も少なくなかったが、もっと多くの若い人々にもぜひ一度訪れて欲しい場所である。そしてその神社に併存する乃木将軍の邸宅や、そこで起きたこと、そしてその意味などについて考える機会にして欲しい。

さてこの本は、日露戦争のときの乃木将軍の様子を、その近くで見ていた米国記者が描いたものである。これは乃木将軍の伝記ではなく、ただ身近にいた乃木将軍の様子を率直な描写でまとめたものであり、そこのことが逆に、乃木将軍の真実の人物像に迫るものになっている。

日常の些細な気遣いや、苦悩の様子、戦中にありながら誌歌にふける歌人としての乃木将軍の姿などが描かれており興味深いものだ。またその記述の隅々に乃木将軍に対する敬愛の情が見える。

著者は米国の記者でありながら、日本人の本質に迫る「武士道精神」や「詩情」のありかたについて深く感銘を受けて、この本を書いているわけだから、乃木将軍が何かしら人間の本質に迫る精神性を有していたことだけは確かな事であろう。

日露戦争で、日本はロシアに勝利し、国内は勝利に湧きたったものの、乃木将軍の心の中はそのようなものとはかけ離れた世界にあった。戦争の現実はもちろんのこと、日本が得たものや失ったもの、特に失ったものについての感性は、詩人としての鋭敏なものである。

日露戦争に勝利した後の日本について、多くの作家(夏目漱石など)がむしろ悲観的な将来を予見していたのと同様の感性を乃木将軍は有していた。そして、その感性の赴く先に、明治天皇の崩御に合わせた自刃がある。この著者は、この乃木将軍の自刃を知って、自分の中にある乃木将軍への思いや自らの思い出を自分の中にとどめておくことができず、この本の著述にとりかかったという。

この本の中に、著者の気持ちを表したものとして、「将軍は、日本古来の理想主義の焔(ほのお)が、西洋文明との接触によって衰え来ったのを、あるいはこの殉死によって再び燃え立たしめることもできようと、胸中ひそかに思っていたかもしれぬ」という記述がある。私も、まさにそうなのだと思う。欧米化する日本に対する警鐘だったのではないかと。

失われそうになっている日本精神。日本人の持つ武士道精神や詩情などの芸術的な感性。米国記者が乃木将軍を通じて知った日本人。この日本人は現在、その形を失い、その本質を毀損し、その美点が汚れてきている。これを、天にある乃木将軍はどのような気持ちで眺めておられるだろうか。自らの死を通じた乃木将軍の「諫言」は果たして日本人に届いているだろうか。

司馬遼太郎は乃木将軍の死を「殉死」とした。私にとっては乃木将軍の死はやはり基本的には「諌死」であって、この諫言は、日本人の全てが耳を傾けなければならないものである。米国人が書いたこの書物は、日本人としての乃木将軍の身近な事実を知るものとして、多くの示唆を与えてくれるものだ。日本人が失ったものを考えるためにも、若い世代の学生たちに、乃木将軍について知るための様々な材料を提供することだろう。

乃木将軍の自刃について考える時、人間にとっての「死」について考えることになる。その人が「死」についてどのような理解をし、どのような認識をしているかということ、そしてそれをどのように迎えるかということが、その人間性の本質を知るうえで非常に重要な要素になる。乃木将軍は、おそらく自刃際しても、特に積極的に死を望んだわけではなく、もちろん死にたくなかったわけでもない。この日常の上にあるような死の表現は、明治天皇の崩御に合わせたものとはいえ、絶えず乃木将軍の中にあり、その表現形態は地上に残すことのできる最後の表現として欠かすことのできないものだったのだろう。

私の机上には、乃木将軍が自刃した当日に撮影された2枚の写真がある。1枚は居間において着座して新聞を読む乃木将軍の姿。少し離れた後方にまっすぐに起立した静子夫人。もう一枚は、邸宅の前で撮影されたものだが、軍服に身を包んで軍刀をもち直立する乃木将軍の姿。

この数時間後には、夫婦共々、自刃してこの世を去っていく人間とはとても思えない様子である。このような写真は、死と同居しながら人生を送ってきた乃木将軍のありのままの姿を示したものとも思える。また、死をその生存のうちに繰り込んで生きていた武士の精神そのものではなかったか。このような部分について私は西郷隆盛との共通点を感じるのである。

死の当日にあえて写真を撮らせた乃木将軍のこのような行動のうちには、現代の日本人が忘れてしまった様々な物事に対する、貴重なメッセージが込められているようにも思える。乃木将軍の死の意味付け(乃木将軍本人にとっての)が、これによって私の中で明確になりつつある。またその人物像にもかなり接近できた著書であった。

外国人から見ても「日本精神」を体現していると言われる乃木将軍の人生。それを最も学ばなければならないのは、他ならぬ私たち日本人自身ではないだろうか。

(アマゾンにて購入 408円)

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投稿者:

山道 清和

日本の未来への発展と繁栄のために、日本の学生には自分から学び、考え、自分の意見を持つことのできる人材になって欲しいと心から願っています。就職や公務員試験に関する相談も受け付けています。遠慮なくどうぞ。

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